ドストエフスキー「死の家の記録」に学べ

言わずと知れた文豪ドストエフスキーのオムスク流刑体験をもとに執筆された小説ですが、深い人間観察と人生観はシンギュラリティ革命を生き抜く際の智慧になりえると思いました。シンギュラリティ革命は科学技術にけん引される産業革命なので勿論科学技術の動向に関する感受性が必要なのですが、意外にも温故知新で、何千年も何万年も変わらない人間性の本質に関わる感受性も大事になってくるのです。文学が大事なんですね。

ドストエフスキーは帝政末期のロシアで、医官の息子として生まれ育ち、父の昇進による世襲貴族権取得に伴って貴族台帳に登載され(つまり自分自身貴族階級になり)、自らもペテルブルグの中央工兵学校から野戦工兵少尉補に任官し、少尉にも昇進したものの、文学活動の中で帝政貴族政の矛盾と、急進的社会主義思想と、キリスト教の中で葛藤した文学作品を多数生み出しました。彼は農奴制を批判する秘密出版社計画に関わり逮捕されて「財産官位の一切を剥奪し要塞懲役8年」の判決が決まりますが、この宣告を受ける前に練兵場に引き立てられ、銃殺刑を宣告されたあと執行直前に恩赦による減刑を告げられ流刑送りになるという波乱万丈に満ちた体験をしています。

そんなドストエフスキーの人生観の一端が次の文章に表れています。

「もしも一人の人間をすっかり押し潰し、破滅させてやろうというつもりで、どんな残忍な人殺しでも聞いただけで身震いして腰を抜かすような、最高に恐ろしい罰を科すとしたら、ただ単に一から十までまったく無益で無意味な作業をさせればいいのだ。」

「死の家」である流刑地で、囚人は皆、懲役作業とは別に自分自身の仕事をやっていたというのです。人間はつねに何らかの意義のある仕事をやらざるを得ない存在だというわけです。

だとしたらシンギュラリティAI革命のあと、生産性革命の完成のあと、技術的失業のあと、人々はもはや働かなくても生活していけるようになった場合に、「仕事が無い、働き口がない」と嘆くよりも、収入を度外視して、自分自身が意義を持つと考えるボランティア作業をすればよいということになります。シンギュラリティ革命後の社会では、「意義探し」が大事になるということですね。

その人にとっての「意義」は、千差万別、十人十色で、必ず違います。その人の生まれ育った経験が、その時々の「意義」につながるのです。だから、「意義」探しは、自分自身の今までの生活を振り返ることから始まるでしょう。

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第一部に出てくる「生まれつき一文無しの者たち」というのも興味深かったです。

「彼らはいつも裸一貫で、いつもうだつの上がらぬ様子で、いつもなんだかへこたれたような、何かにうちひしがれたような顔つきで、しょっちゅう誰かにこき使われ、誰かの使い走りをさせられている。たいていは遊び人かそれともにわか成金でのしあがったような連中にこき使われているのだ。とにかく自分でなにかを始めたり、裁量を握ったりすることが、こういう人間にとっては苦痛であり、重荷である。」

ドストエフスキーから見ると歯がゆい存在、これはまあ、現代社会でいうと「指示待ち君」というやつでしょうか。「正社員は現代社会の奴隷」という言葉も連想されます。このような人は、シンギュラリティ革命の技術的失業を乗り越えることが難しいかもしれません。仕事が無くなるわけですから誰も指示してくれなくなってしまうのです。生活は保証されるが、仕事は無いという状態に耐えられるかどうかが重要です。

貴族あがりのインテリ囚人である主人公(ドストエフスキー)に学問や書物の話を聞きに来る特別監房の囚人ペトローフも興味深いキャラクターでした。あるとき彼は主人公の聖書を盗んでそれを売り払って酒に換えて飲んでしまい、それを主人公に悪びれもせず告白して、主人公の小言を聞いていましたが、その時の様子はこんな感じです。

「しかしその一方で、こんなことはそもそもつまらないことで、まともな人間なら口にするのも恥ずかしいような、けちな出来事だと思っているのも確かだったのだ。」

「私」に学問や書物の知識を求めてくるくせに、そんなことはどうでもよいことだという思いもある、不思議な存在です。学問とか書物とか、聖書(宗教)とか、権威とか、権力とか、全てを達観しているような存在なんですね。勿論彼は政治犯ということではなく悪事を働いて監獄送りになっているのですが、何物にも縛られない自由な態度を保っている存在として描写されています。シンギュラリティの時代には、従来にも増して、「我々を騙そうとする新たな概念装置の罠」というようなものが仕掛けられてくる恐れがありますから、常にペトローフのような態度が大切になります。

そういえば、ハリーポッターの作者の次のツイートが物議を醸していますね。

想像力にあふれた、ハリーポッターを産み出した大作家である、JKローリングさんは、ビットコインの意味が分からないし、信用してないと言い放ったわけです。自分の頭で考えて、理解できるものしか信用できないというのです。誰になんと言われようと、分からないものは分からないというわけです。上記のペトローフのように、何ものにも動じない強靭な精神を持っているのですね。だからこそ、あのような壮大なファンタジーを生み出すことができたのでしょう。

「何ものにも動じない」といえば、明治維新の時に、長州征討で幕府軍35藩15万に迫られて長州藩内で降伏和睦がコンセンサスだったときにひとりで即時蜂起を主張した高杉晋作功山寺挙兵が思い出されます。第二次長州征討(四境戦争)は、幕府軍10万5千に対して長州軍3500と言われています。現代で言えば山口県が日本全国を敵に回したような話です。武器や士気の違いはあるでしょうけど、これをひっくり返す信念は凄いとしか言いようがありません。

東行先生遺文319ページより(東行先生は高杉晋作のこと)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950993

「想ふに諸君らが因循遅疑して大事を決する意思が無いのは、赤根の説に欺されて居るのであらう、赤根武人なる者は大島郡の土百姓ではないか。これに反して此晋作は毛利家譜第恩顧の士である。武人如き匹夫と同一視される男児ではないぞ。若し諸君が武人の説に欺されて晋作の説を聞いて呉れなければ、最早諸君に望む所はない。只従来の旧誼に対して、特に一匹の馬を貸して呉れ、僕は其馬に鞭って萩へ駈附け、城内を叩いて両君公を直諫する積りである。君公にして予の諫言を御採用ない時は、已むを得ず腹掻き切り、臓腑を捉み出し、城門の扉へ叩き附けて、君公の聡明を回し奉るの決心である。」

なんとも激しい説得でしたが、幕府が何万来ようとも、日本の為には長州の決起が必要だという信念が強かったわけです。アロー戦争に敗れた上海を視察して、シナ人が欧米人に道を譲るのを見てこれではいかんと決意したわけですね。

シンギュラリティ革命でも、このような何ものにも動じない信念が大切になってきます。騙されちゃいけないよ、ということなんですね。

※参考記事

ハリエット・タブマンの物語


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