本能寺の変をアップデートせよ

池上裕子、人物叢書織田信長

歴史を学ぶ意義

シンギュラリティを乗り越えるためには未来を知る必要があります。未来を正しく知るためには現在を正しく知る必要があり、現在を正しく知るためには過去を正しく知る必要があります。

練習問題として、本能寺の変が本当に謀反だったのか、復習(アップデート)してみましょう。江戸時代に奨励された朱子学では、林羅山による「上下定分の理」に見られるように君臣の別を弁えなければならないとされ、家臣が主君を裏切ることは理すなわち「宇宙の原理」に反する大罪であるとされました。これは徳川幕藩体制の基本的な考え方、徳川イデオロギーとなり、明治維新で四民平等となっても人々の心に底流として続き、明治、大正、昭和の「教育勅語」や「軍人勅諭」にも引き継がれ、驚くべきことに、21世紀の我々日本人の心の奥底にも流れ続けていると考えられるのです。我々自身が朱子学思想を継承しているのです。

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逆臣か忠臣か

徳川史観で言えば本能寺の変は明智光秀が主君に背いた謀反で、光秀は武士道に反する非道な逆臣ということになりますが、「人物叢書織田信長」や「織田信長文書の研究」や「フロイス日本史」を丁寧に読んでみると必ずしもそうとは言い切れなかった事情が浮かび上がってきます。

完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変-織田信長篇3

信長政権があのまま増長していたら平将門の乱のように朝廷が断絶の危機にあったかもしれないという見方があり、その場合は明智光秀は逆臣ではなく朝廷を救った第一の忠臣ということになるのです。光秀の主君を信長と見るか正親町天皇と見るかで結論が変わってきます。

その境目は、信長の政権構想にあります。信長が従来の権力構造である朝廷を必要としていたか、それとも朝廷は不要と考えていたのか、結局のところその1点に絞られます。

この点について、信長の考えていたことを推測させる事績を再確認して再解釈してみましょう。

・永禄11年1568年9月、信長と浅井長政は義昭を奉じて上洛を開始し、三好三人衆を退け京都に到着した。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて義昭が室町幕府第15代将軍に就任した。義昭は上洛に尽力した者を呼んだ観能会を企画したが、信長は「未だ戦が終わっていない」として観能を13番から5番に減らした。義昭から副将軍か管領職を提案したが信長は断った。→上洛して幕府を再興させたが、その幕府のナンバー2という地位ではないという信長の主張が明らかになりました。鎌倉幕府における執権北条氏のような立場は構想していないということを意味するでしょうか。

・永禄12年1569年6月22日、足利義昭は従三位に昇叙し、権大納言に叙任された。翌年元亀元年と改元。→この時点では義昭が形式上は武家の棟梁であり第一人者の地位にあった。

・元亀4年1573年、7月18日、槇島城の戦いで信長は足利義昭を京都から追放した。7月21日、信長が朝廷に改元を申し入れ、勅命により7月28日に天正に改元された。→改元は天皇の践祚(御代替わり)などにおける朝廷の専権事項だが、武家棟梁の意向により戦乱が鎮まったことを宣明するために行われる場合もあった(例、平清盛による平治の乱終結による永歴改元、元和偃武)。改元は信長が武家の棟梁になった事を示すでしょう。

・天正2年1574年3月27日、信長は蘭奢待という天下一の銘品である香木の切り取りを朝廷に申し出て認められ、東大寺に奉行として柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、武井夕庵、松井友閑を派遣し、3月28日に切り取っています(信長公記)。→切り取りは寛正6年1465年足利義政が切り取ってから109年振りのことでした。1寸四方で2つ切り取り、1片を正親町天皇に献上し、残り1片を取得しました。これは信長が歴代の足利将軍を超えた権威を有していること、天皇と同じ大きさの蘭奢待を得たことで、天皇と同格の権威を得たと主張したのかも知れません。

・天正2年3月に三条西実澄から醍醐寺理性院堯助宛書状で、「然処信長 公家一統之政道如五百年以前可申行之由存寄候」とあり、鎌倉幕府が成立する以前の、500年前の院政復活を信長が企図していたことが読み取れます(織田信長権力論230ページ参照)。この時の信長の政権構想は、豊臣秀吉同様に、征夷大将軍になって幕府を開くことでは無かったようです。

・天正3年1575年3月14日、信長は公家や門跡を対象とする徳政令を発令し、4月1日、公家衆を対象とする本領回復の徳政令を発出した。前者は借金の借用書を返還させるもので、後者は土地の売券(売却証書)を返還させるものでした。→公家や門跡など旧来の権力体制の保全にも力を入れていたことになります。

・天正3年1575年11月4日に石山本願寺との和睦(一時的な天下静謐)後に上洛し昇殿して従三位権大納言に叙任され、同7日には右大将にも任じられ、公卿の仲間入りを果たした。11月28日、信長は信忠に家督を譲り、尾張国と美濃国と岐阜城を譲与し、星切の太刀をはじめ種々の重宝も与えた。信長は佐久間信盛宅に移り、安土城築城を開始した。→官位を得たことは、従来の体制を否定していないことを示唆するでしょうか。

・天正4年1576年11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進した。→官位の上でも信長が義昭を超えた。

・天正6年1578年1月6日、信長が正二位・右大臣に叙任された。

・天正6年1578年2月、播磨三木城の別所長治が離反。

・天正6年1578年3月13日、上杉謙信死去。→3月下旬には信長にも伝わった。

・天正6年1578年4月9日、右大臣・右大将を辞任した。→信長の意図は分かりませんが、辞任して前右大臣(さきのうだいじん)となることは、右大臣よりも実権力が高まる可能性もあります。前関白(太閤)秀吉が有名ですね。辞任して権威が高まるというのは日本社会の特殊な性質かもしれません。

・天正7年、鷹司忠冬の死去により断絶していた鷹司家に二条晴良の子を養子にして鷹司信房として鷹司家を再興させた。→信長は「五摂家」の体制維持を図っていたと評価されます。当然莫大な金銭を要することでした。

・天正7年1579年5月11日に安土城の7層天守が完成し、「御天守に御移徒(おんわたまし)」つまり信長の天守動座があった。安土城三の丸には江雲寺御殿が建てられ御幸の間が用意された。これは安土城天守から遥かに低い場所に建てられ、御幸の間から天守は仰ぎ見る位置関係にあった。逆に天守から御幸の間は遥かに見下す位置関係であった。天守の襖絵の画題は、朝鮮やヨーロッパや日本の人物を取り上げたものが無く、中国の伝説上歴史上の人物を描いたものばかりでした。天守閣の天井には「天人影向(てんじんよごう、天上人がこの世に現れること)」の絵が描かれました。襖には古代中国の伝説上の優れた皇帝である三皇・五帝や孔子の優れた10人の弟子である孔門十哲や竹林の七賢が描かれました。→この天守の装飾は、天守に所在する信長を中国の伝説の皇帝や「天人」になぞらえているとも受け取ることができます。それは必然的に、信長が日本の天皇よりも上位の立場であることを示唆させることになります。

・天正9年1581年3月9日、正親町天皇が勅使を遣わして、信長を左大臣に任じようとの意向を示したが、信長は天皇譲位の後に受けると返答した。

・天正10年1582年3月11日、甲州征伐に出陣し岩村城到達、同日滝川一益の軍勢が天目山付近の田野陣屋で武田勝頼を自害に追い込んで武田氏を滅亡させた。信長は13日に信濃に入り、19日に諏訪に陣を張り、家康や北条氏政使者や滝川一益の挨拶を受け甲斐信濃の仕置きを申し付け、4月2日に凱旋出発し、4月21日に安土に戻った。23日に戦捷参賀の勅使訪問を受けた。→本願寺に続き武田氏も滅亡して、信長の天下統一事業は最終段階に差し掛かった。逆に言えば、本能寺の変は武田氏滅亡の反作用と評価することもできます。

・天正10年1582年4月25日、勧修寺晴豊の日記に、朝廷から安土城の信長へ「太政大臣か関白か将軍か」推任すると勅使が下ったとの記述がありました。いわゆる三職推任問題です。この時点で信長は無官でしたから、朝廷としては然るべき職位を受けて引き続き朝廷を援助してほしいという願いがあったと推察されます。武家の棟梁に対して「太政大臣か関白か将軍か」などという提案は古今東西見られたことがなく破格の待遇であったと言えます。

(晴豊公記、天正十年夏記、四月)廿五日
天晴。
村井所へ参候。
安土へ女はうしゆ(女房衆)御くたし(下し)候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。
その由申入候。

・天正10年1582年5月、信長の誕生日に安土城の摠見寺に礼拝しに来るように領民に命じた。以下フロイス日本史からの引用です。「かくて彼はもはや、日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇するされることだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと不遜さに出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。」「彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、集落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賤民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。」

・天正10年6月2日、光秀に襲われた信長は本能寺に火を放ち自刃しました。自刃したのは敵に殺されない為です。敵に殺されず、遺体も発見されなければ、負けたことにはならないからです。

・フロイス「日本史」第55章(天正10年1582年記)に次の一文がありました。「信長は事実行われていたように、都に赴くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分け与える考えであった。」

空白の三か月

天正6年1月の正二位右大臣叙任から、4月の辞任の間に何があったのか興味深いところです。別所長治の三木城は陥落まで2年を要しており、少なくとも天下統一の完成とは言えなかった状態でした。

天正6年1578年4月の右大臣・右大将辞任後も信長は朝廷権威を否定していたわけではありませんでしたが、本能寺の変直前まで、朝廷と信長の間で官位を受けるかどうかで葛藤があったことが分かります。結果として、信長は官職を受けてない状態で討たれてしまいます。

信長が摠見寺の神体を自分自身であると主張し、自分の誕生日に参拝するように領民に命じたというのは、フロイスの日本史以外に資料が無く、これを否定する見解もあるようですが、「火の無いところに煙は立たない」と解釈することもできるでしょう。信長は既存の宗教や政治体制の「絶対性」を超越しようとしていたのかもしれません。フロイスの「日本史」には、伝聞のようですが、信長の「唐入り」計画も記されていました。

本能寺の変の動機や黒幕については現在も歴史学者の間で議論が継続しており定説が定まっておりません。いわば答えの無い問題ということになります。旧来の常識を打破し、自分の頭で、ゼロベースで考えてみる必要があります。そのためには、歴史上の一次資料に立ち返る必要があります。難しいことかもしれませんが、古文漢文を勉強し、戦国時代の崩し字を自分自身で読解できる技術の習得が必要になるというわけです。上記の事実を再確認するだけでも、本能寺の変が単なる光秀の謀反で片付けられるような事件ではなかったことが分かります。

これと同じように、21世紀の現在の情勢分析や、シンギュラリティ革命の行く末について、各自の考えを確立する必要があるでしょう。それは、他人の意見に左右されず、自分自身の頭で考えることが必要なことです。シンギュラリティを乗り越えるためのトレーニングのひとつとして、歴史の解釈問題に取り組んでみることは有益なことでしょう。

※参考書籍

金子拓、織田信長権力論


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