こちらの本の第五章のタイトルに度肝を抜かれました。
武士道の敵は司馬遼太郎–「功利」「損得哲学」の行き着く先
なんとこちらの本では国民的作家である司馬遼太郎さんのことを否定なさっておられるのです。
管理人も「竜馬がゆく」全8巻を高校時代に読んで司馬遼太郎の大ファンになりましたし、司馬遼太郎さんに日本史の大事な場面を教えてもらった気がしていました。
しかし「本当の武士道」を御紹介なさっておられるこちらの本では、司馬遼太郎は武士道の敵だと言って批判しておられるんですね。
—引用はじめ
経済原理とその手足たる科学技術への賛美は、司馬遼太郎の明治物の基調原理となっているのみならず、彼の歴史小説全般に通底する基本的価値観でもあります。(中略)
名を捨て、義を捨てて、利と力を追求する、それが、司馬遼太郎が共感をもって描き出す人物像です。織田信長や豊臣秀吉、高杉晋作や大村益次郎は(実際に彼らがそうであったとは必ずしも思えませんが)、すくなくとも司馬が描くかぎり、そういう人物の典型となります。
—引用おわり
著者は「葉隠」を現代語訳して解説し、武士道は「死狂い」であり、理屈や利益は捨て去るものだと説明しています。それが治安を維持し愛する人を守り切る最善手段であると言うのです。そのような「本当の武士道」から見れば、明治維新の合理主義は堕落した精神ということになってしまうのでしょう。「武士は食わねど高楊枝」とは、武士を揶揄した川柳ですが、意外に武士道の神髄が含まれているのかもしれません。
今、数十年来の司馬遼太郎ファンである自分と、「葉隠」読解を通じて武士道精神のカッコよさに惹かれている自分とが、せめぎ合って決着がつかない状態で混乱しています。しかし、もともと、どちらかにハッキリ決まるような問題など無いのかも知れません。矛盾は矛盾のまま持ち続けて、考え続ける姿勢が大事なのかもしれません。21世紀のシンギュラリティ革命を乗り切るためには、常に2方面からの見方が必要なのかもしれません。司馬遼太郎を楽しんで読みながら同時に批判もする「批判的読解」が、シンギュラリティ対策には必要なのです。
※参考記事
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