新型コロナウイルスの流行は偶然ではありません。それは人類活動の「反作用」として発生した出来事だったのです。
地球温暖化と同じように、人類が社会経済活動を拡大させ続けてきた成長追究の資本主義の必然の帰結として、国際線航空機による人的交流も無限に拡大していって、新型ウイルスの蔓延も促進されたのです。それは化石燃料を燃やし続けて温室効果ガスが増えて地球の気温が上がったのと似ています。産業革命以前の人類社会であれば、新型コロナウイルスが発生したとしても、どこかの地方の風土病で終わっていたでしょう。人々の移動の増大が、ウイルスも拡散させているのです。
経済成長が永遠に続くというおとぎ話
地球温暖化による台風やハリケーン被害の指数関数的な増大を目の当たりにして、また、新型コロナウイルスの爆発的な増加を目の当たりにして、一部の人々は「経済成長が永遠に続くというおとぎ話」はもう通用しないんじゃないかと思い始めています。グレタ・トゥーンベリさんは2019年の国連気候行動サミットで大絶滅が始まっていると警告しました。
グレタ・トゥーンベリ、変化をもたらすために未熟すぎるなんてことはない
いまや、はっきりと問題点が明確化されました。我々は我々自身の経済活動が自分達を絶滅に追いやりつつあることを認識し始めたのです。そして、人々は「持続可能性レジリエンス」のある、「新しい物語」を模索し始めました。
GDPへの疑問
世界中の学者や政治家が望ましい変化の指標として国内総生産GDPを用いていますが、統計分析では、各国のGDPと、平均寿命、識字率、平等、安全、政治参加、メンタルヘルスは相関しないし、収監される犯罪者、肥満、殺人、自殺割合との逆相関も存在しません。
成長には3つのリズムが存在し、生物が行っている循環型成長、永続的成長と、複利型成長です。20世紀の植民地主義の進行につれて経済成長は複利的に、永続的に進行していくように見えましたが、地球は有限の惑星であり、「ジャックと豆の木」のように永遠に続かないのは明白です。地球に住む生物である我々人類は循環型成長しか参加することはできないのです。
コモンズとコモニング
このような永続的な複利的な成長を放棄し、成長を目指さない未来でゆたかな暮らしを実現するために、人と人の関係や、人と環境の関係を今までとは全く違うものに造り変えていく必要があると言います。
それは、人々が共同で管理し共有する資源や生活システムである、コモンズの復権です。コモンズの形態は様々です。森林、漁場、都市空間、デジタルツール、知識、技術、音楽などもコモンズです。共有の資源をつくり、維持し、享受していくプロセスを「コモニング」と言います。著作権が切れたクラシック音楽や、オープンソースソフトウェアも、ウィキペディアの知識も、ピアツーピアネットワークもコモンズだったんですね。発行主体が存在しない暗号資産もコモンズです。コモンズを生み出す人々をコモナーと呼びます。
脱成長の思想と実践
フランスでは1970年代からデクロワサンス Decroissance 脱成長という思想が語られ、書籍が執筆されるようになりましたが、世界中で伝統的に同様の思想が語られ実践されてきました。
- 南米ではブエン・ビビール Buen Vivir(スペイン語で「よく生きる」)
- インドではスワラージSwaraj(ヒンディー語で「自己統治」)
- アフリカ南部ではウブントゥ Ubuntu (ズールー語で「みんなのおかげで、わたしがいる」)
あのLinuxOSディストリビューションのUbuntuは商業主義を否定する意味があったんですね。日本では何でしょう、隠者文学、出家ということでしょうか。吉田兼好の徒然草とか、鴨長明の方丈記でしょうか。日本でも「隣組」という制度がありましたね。江戸時代は五人組、現代でも町内会として続いています。困ったときに助け合う地域社会共同体です。それだけでなく、親族関係も現代よりも密接でした。たとえばイトコの子供同士の関係を示すハトコという言葉がありますが、現代社会ではハトコが交流することが極小になっているのでハトコという言葉が使われることもほとんどありませんが、江戸時代、明治、昭和初期までは交流が頻繁であったために、ハトコという言葉が残っているわけです。
脱成長といえば、電気や自動車など文明の利器を拒否して自給自足で、職業牧師も拒否する再洗礼派のアーミッシュの人々の生活が参考になります。
勿論、学生時代に勉強して、就職して仕事をして、結婚して家族を養っていくプロセスで、従来型の経済成長モデルに参加しなければならない事情は継続しているのですが、それ以外の選択肢も昔はあったし、これからも在り続ける、それは「新しい物語」として模索されている、ということに注意を払う必要があります。
※参考記事
※参考書籍
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