お盆休みはキリスト教の歴史を勉強しました。その中で、今更ですが「アッシジの聖フランチェスコ」の生涯には驚かされました。こんな人ホントに居たんだ!普通の日本人の素直な驚きです。まあ、キリスト教国の人々も空海とか道元禅師とか知らないでしょうからね、おあいこです。
あーでも、アメリカのカリフォルニアのサンフランシスコって、この聖フランチェスコにちなんで名付けられたそうです。知らずに観光してました!
あーさらに、現フランシスコ教皇さまは、この聖フランチェスコにちなんで教皇名を決めたんだそうです、知らなかった!
フランチェスコは1181年もしくは1182年に、イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで、裕福な毛織物商の息子に生まれました。フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだとされています。つまりラテン語の聖書を学びました。聖書の言葉はフランチェスコの心の奥底に刻まれ、後日、青年期の葛藤の中で息を吹き返すことになります。
当時は神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)の対立があり、1202年、フランチェスコも教皇派として戦闘に参加しましたがアッシジは敗北し、隣町ペルージャ(皇帝派)の牢獄に捕虜として1年以上を過ごした後に釈放されアッシジに帰りました。フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった自分を発見した。友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。
ここらへんの経緯は、戦傷経験から瞑想に入ったとされるイエズス会を創設したイグナティウス・デ・ロヨラの回心とちょっと似ていますね。日本だとちょうど鎌倉幕府が成立したころであり、武家が権力闘争に明け暮れていた頃です。癒しを求めて鎌倉仏教が流行ったのと少し似ているかも知れません。
24歳のある晩アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞き、それ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった。やがて彼は、教会を物理的に修復するだけでなく、キリストを信じる者の共同体としての教会を本来の形に直していくことことが求められていたと悟ります。キリストが貧しさを選んだのだから、自分も貧しくならなければならない、そこから本当の喜びが生まれると信じました。聖書の教えに目覚め、相続財産を全て放棄し、身に付けていた美しい服を脱ぎ捨て、清貧の生活を始めた。
父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。ついにアッシジ司教の前で父子は対決するが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。
フランチェスコには2つの反面教師があったように思いました。ひとつは裕福な毛織物商の父親で、もうひとつは教皇派と皇帝派の戦争です。金銭や領土をいくら追求しても切りがない、それは人間を不幸にするだけだ、ということに気付いてしまったのでした。そして、その懊悩から解放されるためには、聖書の世界のイエス・キリストの言葉に耳を傾けるべきだ、イエスの当時の生活に近づく実践をするべきだと気づいたわけです。
原始会則
やがて彼はフランシスコ修道会を創始しましたが、お告げで啓示を受けたとされる「原始会則」「第一会則」はあまりにも厳格過ぎて同志の同意も得られませんでした。当時は13世紀が始まったばかりですが、イエスの時代、聖書が書かれた時代から千年以上が経過し、人々の生活スタイルが大きく変わっていたのです。
その原始会則は、聖書にしるされたイエス・キリストの言葉3箇条です。
第一条 「汝、もし全(まっ)たからんと欲せば、行きて有(たも)でるものを売り、これを貧者に施せ、しからば天において宝を得ん、しかして来たりて吾に従え」(マタイ伝19章21節)
第二条 「金、銀または銭を汝の帯に持つことなかれ、行囊(こうのう=袋)も二枚の下着も、靴も杖もまた同じ」(マタイ伝10章9,10節、ルカ伝9章3節)
第三条 「みともし吾に従わんと欲せば、己れをすてて、おのが十字架をとりて、吾に従え」(マルコ伝8章34節、マタイ伝16章24節)
なんと、持っている物は全て貧者に施して、金銀銅からバッグから、替えの下着から靴から杖に至るまで、一切の所有を禁じて、ただ十字架だけを所持して信仰に従えというのです!
托鉢修道士は、鉢を持って民家を回って食べ物を乞い歩くことによりキリストの教えを広めようとする修行スタイルで、聖書に記されたイエスと同じように、財産をもたず、定住せず、清貧を貫き、ひたすら教えを説くことを実践した人々です。当時のカトリック司教達の生活とはあまりにもかけ離れた修行スタイルでしたが、福音書に書かれた生活をシンプルに実践することだけを考え、その認可を求めたものと推測されており、これを否定することは聖書の教えを否定することにも繋がりかねず、1210年に謁見した教皇インノケンティウス3世もこれを否定しきれませんでした。教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見たから認可したという伝承も残されています。
彼は造物主が造り出した被造物に対する愛を持って、全てのものに接し、動物にも説教したと言われています。生物、無生物の区別なく、自然界にあるもの全てを兄弟と呼びました。動物にも分け隔てなく接したのですから、当然、人間の中の善人も悪人にも分け隔てなく接したのでしょう。それってまるで造物主の態度ですよね!
ジョット・ディ・ボンドーネ、小鳥に説教する聖フランシスコ
なんとも「さわやか」で「カッコいい」、聖フランチェスコさまです。キリストの生まれ変わりのようなこういうひとが本当に居るんですねえ。フランシスコの伝記をウィキペディアで読むだけで癒されてしまいます、不思議な人ですね。あまりにも爽やかでフランチェスコ様の本をどんどん読みたくなってしまいます。まるで清涼飲料水のようなお方ですね。日本だと明恵上人なんかちょっと似ているかもしれません。明恵上人と聖フランチェスコは生没年も近いですよね。
平和の祈り
フランシスコの平和の祈り、から
主よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを望ませてください。
シンギュラリティとの関係で言いますと、ベーシックインカムで生活できるようになる時代には、やはり、心の豊かさというものが大事になってきますので、13世紀に清貧の生活を実践をした聖フランチェスコの生涯はとても勉強になるものだと思います。今風の断捨離とか簡易生活に通じるものがあります。聖フランチェスコが考えていたことは、シンギュラリティ後の人類にとっても色褪せることなく当てはまることでしょう。
※参考書籍
河合隼雄、ヨゼフ・ピタウ、聖地アッシジの対話【聖フランチェスコと明恵上人】
※参考記事
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