第一次産業革命期に19世紀イギリスで、仕事を奪われるおそれを感じた手工業労働者が、織物機械などを排斥したり破壊したりした運動です。1779年に、ネッド=ラッドという人物が、2台のストッキングフレームという織機を破壊したのがきっかけと言われ、この人物の名前を取って、ラッダイト運動と呼ばれています。この運動は労働運動の先駆けとも言われています。高価な機械を破壊されると資本家には多大な損害となるため、機械破壊者は死刑に処すという法律まで制定され、実際に死刑になった者もいました。産業革命を推進した機械発明者も、機械工場経営者も、機械を破壊した手工業労働者も、皆良かれと思って各自が自分の信じた正しいことを行ったのですが、不幸な結果を生んでしまったのです。これは産業革命に付随する市民の騒乱であり、人々を啓発し、様々な文学や詩歌も産み出しました。
このラッダイト運動が、現代の産業革命(生産性革命、AI革命)においても、反動運動を引き起こす可能性があると予言されており、それは「ネオラッダイト」と呼ばれています。
産業革命期のラッダイト運動と、21世紀のネオラッダイトについて考えることは、我々および子供たちの将来にとって必ず良い教訓になると思います。
ラッダイト運動の教訓は、2つの側面から考えることができます。1つは、産業化や文明化が進んでも人間性を維持することは大事なことであるということです。人間性とは何かと考えると難しいですが、人間本来の生活が失われるリスクがあるということでしょうか。例えばスマホを使って日常生活が便利になりますが、スマホの操作に時間を取られて、現実世界で遊ぶ(楽しむ)ことがおろそかになってしまったら本末転倒ですよということですね。
もうひとつは、新しい機械や社会の仕組みを受け入れろということです。新しい社会制度に反対し抵抗したい気持ちは理解できますが、反動するより、うまく取り入れる事の方が生き易いのではないかという考え方です。産業革命時には機械工業が進展して手工業が衰退しても、サービス業など新しい別の職業が誕生し、機械に仕事を奪われた人々は転職先を見つけることができました。ラッダイト抵抗運動にも関わらず工業化は全速力で進展し、イギリスの求人数も生活の質も向上し続けたのです。これを「ラッダイトの誤謬、労働塊の誤謬」と言います。
19世紀イギリス同様、21世紀の情報化社会、高度生産性社会でも、人間の従来型の労働は必要性が低下しますが、従来の労働に固執するより社会が変化したことを受け入れて新しい労働や活動を模索し、それに身を委ねたほうが良いのではないかと考えることができます。
人間性を維持するための、文明化や産業化への反対運動は、ネオラッダイトに限らず、有史以来実践されてきたことです。18世紀フランスの哲学者ジャンジャックルソーは「人間不平等起源論」で、本来の自然状態では平等であった人間が、耕作や牧畜を始め文明化していく中で、生産物や富の蓄積により、これが偏在化して不平等を招いたと分析しました。いわゆる「自然に帰れ!」と要約されている主張です。
キリスト教プロテスタントの再洗礼派(アナバプテスト派)である、アーミッシュやメノナイトは、農耕や牧畜は行うものの、農薬や化学肥料を全く使わず、徹底的な自給自足生活を営んでいます。教会の建物を持たず、聖職者を廃止し、各家庭持ち回りで礼拝の集会を行います。商用電力や内燃機関を用いることは禁止され、馬車で移動しています。
日本でも、曹洞宗永平寺や、天台宗比叡山延暦寺などいわゆる名刹古刹では、現在でも文明から離れた修行生活が続けられていますし、文学者武者小路実篤が開いた「新しき村」では、私有財産を廃止した原始的な共同生活が維持されています。このような特殊な例だけでなく、日本の地方都市の生活では、今でも冠婚葬祭で協力し合う隣組制度の名残りがあり、相互扶助の精神が受けつがれています。
作用があれば、反作用があります。新しい生産性革命にも、当然に反作用が予想されるというわけです。この作用と反作用に対して、自分自身どのような態度で臨むのか、事前に考えておかねばならないでしょう。その際、人間性を維持するための様々な先人達の工夫があったことを学ぶことは有益な行為であると思います。
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