知の冒険

ジャックデリダ、足立和浩訳、グラマトロジーについて下巻

シンギュラリティを乗り越えるためには、形而上学との闘いも必須となります。旧体制の形而上学に騙されないようにするためです。それは知の冒険であり、勇気と行動が必要になる壮絶な戦いです。むかし、デリダの「グラマトロジーについて」にチャレンジしたときは雰囲気を感じるだけで難しすぎて途中で挫折してしまいましたが、30年近く経ってから読み返すと不思議に理解できる部分がありました。年を取ることは素晴らしいことですね。知の冒険は、時間を掛けて焦らず進まねばなりません。

苫野一徳、ルソー社会契約論

昔読んだとき、なんでデリダは何度も何度もルソーに対する言及をしているのか分かりませんでしたが、苫野一徳さんの「社会契約論」を読んで少し分かりました。フランス人にとってルソーは永遠のテーマだからなんですね。

JJルソー「社会契約論」より

「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?私はこの問題は解き得ると信じる。」

デリダはルソーが考え続けた問題を「言語起源論」や「言語に関する試論」から読み解こうとしています。

JJルソー「言語に関する試論」より

「文字言語エクリチュールは、音声言語パロールの代理でしかない。対象を明らかにすることよりも、その像を明らかにすることの方により注意が払われているのは奇妙なことだ。」

「ところで、集まった民衆に聞き取れない言語はすべて奴隷の言語だと私は言おう。或る民族が自由でありながら、そのような言語を話すということはあり得ないのである。」

ルソーは、文字言語だけでなく、音声言語であっても使われ方によっては自然状態からの乖離のもとになると警戒しているのです。

ルソーは「デュクロの一般的合理的文法についての注釈」でデュクロの次の言葉を引用しています。

「ある民族の性格、風俗、関心がどれほどその言語に影響するかを事実に即して観察し、実例によって示すことは、十分に哲学的な探求の題材となるであろう。」

これはルソー自身の「言語と民族自身との相互作用への探求」の入り口となったものであり、形而上学の閉域からの超克のチャンスにもなり得ることだとデリダは言っていたんですね。

「グラマトロジーについて」第二部第一章の題名は「文字の暴力、レヴィストロースからルソーまで」となっています。なぜ、レヴィストロースからルソーまでなのか、20年前は分かりませんでした。時代順に並べて「ルソーからレヴィストロースじゃないの?」と思ってしまいました。でも、違うんですね、「レヴィストロースからルソー」で良いんです。ルソーを正しく読むことは途方もなく難しい事だよとデリダは言いたかったのです。

「それゆえ、声の届く範囲に対する称賛は、文字言語エクリチュールへの軽蔑と相まってルソーとレヴィストロースに共通のものである。にもかかわらず、これからわれわれが読まねばならぬテクストにおいて、ルソーはまた充溢的で現前的な音声言語パロールという錯覚をも、また透明で無垢だと信じられている音声言語における現前という錯覚をも、警戒している。」

文字の暴力というのも、何が「暴力」なのか20年前は分かりませんでしたが、それは、名付けることによる情報の喪失を指していたようです。

「実際、名付けるという第一の暴力が存在したのである。名付けること、場合によっては口に出すのが禁じられるであろうような名前を与えること、これが言語の根源的暴力であって、これは差異の中に絶対的な呼びかけ符号を書き込み、それをクラス分けし、宙吊りにする。」

改めて読み直して、ルソーの思想は、ルソーの実生活(出生時の母親の死、ヴァランス夫人との出会い)から大きな影響を受けていたと知りました。知の冒険をするには実生活でも冒険が必要だと痛感させられました。

「グラマトロジーについて」の驚愕すべき翻訳者足立和浩氏の指導教授だった森本和夫氏は、デリダ読解から、道元禅師の正法眼蔵に示された「身心脱落」に注意を向けています。森本氏はフランス文学者だったのに道元研究に傾倒し何冊も道元読解の著書がある知の巨人です。

※参考書籍

森本和夫、デリダから道元へ

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