
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんの3冊目。ネクサスの上巻を読みました。勿論1冊目はサピエンス全史、2冊目はホモ・デウス、3冊目がネクサスなのです。サピエンス全史は、狩猟採集民は幸福だったが農業革命という史上最大の詐欺により人々は隷属させられたという人類史を提示しましたし、ホモ・デウスは近未来のディストピアの危険を説きました。3冊目は、ウクライナ戦争の影響も感じさせる、AIテクノロジーが人類になにをもたらすかという警告の書です。管理人の読解を提示します。
プロローグ
我々ホモ・サピエンスは、情報と力を獲得するのが得意であるが、知恵を身に付けるのが各段に下手である。人類は大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するが、その構築の仕方のせいで力を無分別に使いやすくなってしまっている。我々は全体主義政権の勝利を防ぎたければ、私たちは自ら懸命に努力しなければならない。
情報を集めることにより、真実に近づくことができ、そこから知恵と力が生み出される、という「情報の素朴な見方」には、疑問が突き付けられている。
第1章 情報とは何か?
情報は現実を表す試みだが、「人間社会の情報の大半は、いや、それどころか他の生物系や物理系での情報の大半も、何も表していない」と私は考える。
「対抗言論ドクトリン」は、多くの情報を得ることで誤情報や偽情報が引き起こす問題を解決できるとするものだが、私はこの考え方を支持しない。
情報の最大の特徴は現実を表すことではなく、まったく異なるものを結び付けて新しい現実を創り出すことだ。占星術しかり、音楽しかりである。情報は、社会的なネクサス(つながり、結びつき、絆、中心、中枢)を作る。
最も成功したネクサスのひとつである聖書には誤りが含まれているが、それは聖書の影響力と何の関係も無い。
第2章 物語–無限のつながり
私たちサピエンスが世界を支配しているのは、私たちが特別に賢いからではなく大勢で柔軟に協力できる唯一の動物だからだ。我々の近縁種であるチンパンジーも数十頭の集団の協力はできるが、人類は言語能力を獲得することにより、互いに個人的に知らない者同士を強力させることに成功した。
独裁者の権力は「その人」に属するのではなく、そのブランドという物語に属している。
我々は、客観的現実と主観的現実に囲まれているが、第三の現実である、共同主観的現実の比重が増している。それは、法律や神や通貨といった物語に外ならない。もちろん国だって、物語である。
我々ホモ・サピエンスがネアンデルタール人を凌駕したのは、知能や腕力が優ったからではなく、物語の力によって協力したからであった。
プラトンは著書「国家」において、自分の理想の国家の樹立は「高貴な嘘」に基づくことになるだろうと述べている。「高貴な嘘」は、社会秩序の源泉についての架空の物語であり、国民の忠誠を確保し、彼らが政体に疑いを抱くのを防ぐものだ。人間の政治制度はみな虚構に基づいているが、それを認めるものもあるし、認めないものもある。
情報の機能を理解することによって、情報の素朴な見方ではなく、情報の複雑な見方が提示される。それは、情報によって、真実だけでなく秩序が生み出され、それが知恵や力に繋がっているということだ。
第3章 文書–紙というトラの一噛み
口承文化では、共同主観的現実は人々の脳が記憶できる量に制限されていたが、文書の発明によって限界が突破され拡大していった。最初の文書は粘土板に記されたが、やがて紙に記録され、コンピューターに記録されるようになった。古代アッシリアの方言では文書を生き物のように扱い、殺すことも可能であるように言い表していた。契約書が現実を表すのではなく、契約書こそが現実だった。
文書の増大は検索の困難と増大させたが、官僚制がそれを解決した。神話と官僚制は、あらゆる大規模社会を支える二本柱である。官僚制と神話はともに、秩序を維持するのに不可欠であり、どちらも秩序のためなら喜んで真実を犠牲にする。
第4章 誤り–不可謬という幻想
人間は誤りを免れないため、自己修正メカニズムが必要である。あらゆる宗教の核心には、超人的で不可謬の知能と人間が結びつくという空想がある。
宗教の聖典が聖職者たちによって編纂されても、解釈という問題が生じた。解釈の権限は教会に与えられた。
印刷術の発明がヨーロッパにおける魔女狩りの熱狂を引き起こした。魔女は客観的な現実ではなかったが、共同主観的現実となった。魔女は貨幣と同じように、それについての情報を交換することで現実になったのだ。
これに対し、科学革命の原動力は印刷というテクノロジーではなく、科学誌を発行するキュレーション機関の自己修正メカニズムであった。科学革命は無知の発見によって始まったのだ。
自己修正メカニズムは自然界では至る所に存在しているが、不可謬性を誇る宗教機関では自己修正メカニズムは弱くなっている。
科学の世界では雇用や昇進が「出版か死か」という原則に基づいて行われている。既存の説の間違いを暴いたり、誰も知らない発見を投稿しなければ権威ある化学雑誌に論文を掲載することはできない。
第5章 決定–民主主義と全体主義の概史
独裁社会は協力な自己修正メカニズムを欠いた中央集中型の情報ネットワークだが、民主社会は強力な自己修正メカニズムを持つ分散型の情報ネットワークだ。選挙は民主主義の実行手段として欠かせないが、民主主義そのものではない。民主制は多数派による独裁制とは同一ではない。民主制というのは、どれだけの規模の多数派であれ、不人気な少数派を皆殺しにできる制度ではない。民主制では、多数派の支配が及ばないカテゴリーがふたつある。ひとつは人権であり、もうひとつは公民権(選挙に参加する権利)である。
強権的なポピュリスト指導者が民主制を切り崩すのに使う最もありふれた方法は、自己修正メカニズムをひとつ、またひとつと攻撃することだ。手始めに標的とされるのは、裁判所とメディアであることが多い。独立した報道機関、大学の学者も標的となる。
現代の独裁者は油田や鉱山や穀倉などの権益を独占して官僚機構を操って支配体制を維持しているが、狩猟採集民の社会ではそのようなことはできなかった。狩猟採集民の重要な資産は、自分の技能と友だけだった。だから首長が独裁的になったら、人々はあっさり立ち去ることができた。
話し合いを行うには、話をする自由と、相手の話に耳を傾ける能力だけでなく、2つの前提条件を必要とする。第一に、人々は互いの声が聞こえる範囲に居る必要があり、第二に、人々は自分が語ることについての少なくとも初歩的な理解を必要とする。
ナチ党もソ連共産党も自らの不可謬性を主張していたので、それ以前のキリスト教会と同じように見えるかもしれないが、前近代のキリスト教会は世俗権力と衝突しカノッサの屈辱のような事件を起こしていた。教会は独裁権力の重要な抑制装置だった。
印刷術や、電報や、ラジオ放送などの発明により、大規模な民主制と大規模な全体主義体制の両方が台頭した。チェルノブイリ発電所の事故はソ連当局に隠蔽されたが1200キロ離れたスウェーデンの科学者が放射線レベルに気付き西側の報道機関により報道された。スリーマイル島の事故の時は、独立したラジオ局が警察無線を傍受して報道された。
21世紀のAI技術は、民主制と全体主義の両方にチャンスを与えている。鉄のカーテンに代わる、AIによるシリコンのカーテンによって再び分断される可能性が高まっている。
とりとめのない読解で申し訳ございません。各自ネクサスを手に取り自分で読んで下さい。
情報とは何かという根源的な問いからスタートして、それは現実を何も表していないという恐るべき事実を提示します。まあ、言語学でも言語の恣意性ということは百年前から言われていることですね(ソシュール言語学)。右と左の呼び方や区別や境界には何も意味は無く、決まったものもない、ということですね。言語によって、虹の色数も異なるそうです。
情報は人々をつなげるネクサス(つながり)を生み出し、共同主観的現実(物語、ナラティブ)を創り出す。人々はそれに従って共同作業を行う。原子爆弾だってそうやって作られた。それこそが人類のパワーというのです。
狩猟採集民は現代の我々よりもはるかに民主的な社会に生きていたという歴史を提示してくれます。それが、言語の発明、粘土板に始まる文書、活版印刷、電信、ラジオ、新聞、インターネットの発明により、大規模政治体制を出現させたが、それは民主制に限らず全体主義の場合もある。20世紀末に鉄のカーテンは消えたように見えたが、21世紀にはAIによるシリコンのカーテンが生まれつつある。民主制は形式的な名前だけのものではなく、定期的な選挙をやれば実現できるのではなく、政治権力を抑制する自己修正メカニズムが整備されて初めて実現できる。人権や公民権(選挙権や被選挙権)に対する人々の信頼も必要だ。自己修正メカニズムは、裁判所だったり、立法議会だったり、独立した報道機関だったり、大学の教授だったりする。
狩猟採集民の主要な財産は、自分自身の狩猟採集技能と、信頼できる友だった。これらは自分自身で築き、自分自身で制御できるものだったが、現代人の財産は文書やデジタルデータに移行してしまった。独裁者から逃れることが各段に難しくなっている。AIテクノロジーがその困難をはるかに高めている。そんな時代の我々に求められていることは何か、そういうことを考えさせてくれる本です。
※参考記事
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