シンギュラリティを乗り越えるためには未来を知る必要があります。未来を正しく知るためには現在を正しく知る必要があり、現在を正しく知るためには過去を正しく知る必要があります。
練習問題として、信長と家康の同盟関係が服属関係に変化した時期を考えてみましょう。江戸時代に成立した徳川史観(松平中心史観)では織田徳川の清洲同盟は本能寺の変まで継続したことになっていますが、「信長研究の最前線」の第一部、平野明夫氏による「織田・徳川同盟は強固だったのか」では、元亀元年(1570年)から、天正3年(1575年)の間に、対等な同盟関係から、家康が信長の臣下に降る転換が起きたと指摘されています。信長が天下を取れば、全国の大名が臣下に下りますから、同盟は転換せざるを得ない訳です。
じゃあ、具体的に、いつ、その転換が起きたのでしょう。その事件は何年何月何日だったのでしょうか。当然ながら、その事件は徳川幕府250年の間に揉み消され証拠隠滅されてしまっているのですが、真実を消し去ることはできませんので、様々な状況証拠から当該日時の推定を考えてみましょう。この論点には定説がありませんし、勿論教科書にも書いてありません。要するにこの問題を考えることは「自分の頭で考える=think different」ことの訓練になるのです。
・弘治4年(1558年)2月28日、「惟房公記」によると正親町天皇は儒学者清原枝賢を介して三好長慶と相談して永禄改元を行った。足利義輝将軍には相談せずに改元された。永禄は三好長慶の時代であった。三好政権が成立したとされ、実質的な三好幕府のようなものか。
・永禄3年1560年6月12日、桶狭間の戦いで信長が今川義元を討つ。天文20年1550年の織田信秀死去後に尾張領への攻勢を強めていた今川義元の遠征を返り討ちにした。家康は直後から今川家を出奔して独立し、織田徳川同盟(清洲同盟)も成立した。信長には尾張統一事業(西方の心配)、家康には三河からの今川勢力排除(東方の心配)というそれぞれの懸案があった。→この時点で既に、信長=義元を討って三河を含む今川領に寧ろ侵攻しようとする立場、家康=今川家属国から偶発事件をきっかけに独立宣言しただけ、という力量の差があった。石高も尾張57万石、三河29万石であった(慶長3年1598年検地)。同盟と言っても最初から歴然とした優劣関係があった。
・永禄6年1563年3月、松平元康の嫡子竹千代(信康)と信長の娘徳姫の婚約が成立し同盟関係が強化された。元康は同年10月までに家康と改名し、烏帽子親である義元から与えられた「元」の字を捨てた事で今川家からの決別を宣言した。同年末から翌年にかけて三河一向一揆に苦しむ。
・永禄6年1563年5月、将軍義輝の直臣をリストアップした「永禄六年諸役人附」が作成され、永禄9から10年頃、将軍補任前の義昭によって信長(織田尾張守信長・任弾正忠・尾張国)や家康(松平蔵人元康・三河)や水野信元(水野下野守信元・三河、家康の母於大の兄)が追記された(長節子「所謂『永禄六年諸役人附』について、史学文学1962年4-1)。この3名は形式上同列の扱い「外様衆 大名在国衆」となっていた。
・永禄7年1564年5月、信長は、反旗を翻していた織田信清が籠る犬山城を陥落、甲斐武田氏のもとへ敗走させ尾張統一を完成させた。→信長は尾張統一を果たしたので清洲同盟を守る理由が減少した。7月4日、三好長慶が死亡し、将軍親政を始めようとした足利義輝と、三好義継を後見する三好三人衆の対立が始まる。
・永禄8年1565年5月19日に、永禄の政変で、13代将軍足利義輝が殺害された。弟の義昭(当時は興福寺一条院門跡で法名覚慶)は一時幽閉されたが脱出し近江の和田惟政を頼って身を寄せた。8月5日以降に家康・信長を含む諸国大名に足利将軍家当主になり幕府再興させるので協力せよとの御内書を発行し上洛への助力を求めた。11月20日に家康、12月5日に信長が、それぞれ助力する旨を返答している。11月21日、近江の六角義賢の協力を得て、京都に程近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移り住み、在所とした(矢島御所)。翌年2月17日、矢島御所で還俗し、義秋と名乗った。
・永禄9年1566年に家康は三河平定に成功し、京都誓願寺の泰翁を仲立ちに、関白近衛前久(藤原氏長者)経由で正親町天皇に取り次ぎ(献金し)、同年12月29日、徳川(藤原姓)に改姓して従五位下三河守に叙任された。→この朝廷工作には信長の影響が見られません。
・永禄10年1567年5月27日、信長の長女である徳姫と家康長男三郎が結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。→信康の元服時の烏帽子親は信長であった可能性があります。偏諱は、臣下に自分の名前の一字を与えて忠勤を求める意味。「信康」で「康」より「信」が先に来るのが象徴的です。信長の方が上位ですね。勿論、徳姫は織田家から徳川家に対する人質です。
これは、天正12年1584年小牧長久手の戦い後の講和で、家康の次男が「羽柴秀康(後の結城秀康、松平秀康)」として秀吉の養子に入り、秀吉妹の朝日姫が家康に嫁いだのと同じで、本領安堵するから臣下に降りなさい、臣下の礼を取るため面会に来ても殺しませんよ、という約束の担保に人質を出したのです。「秀康」の時も上位の秀吉からの偏諱の「秀」が「康」の前に付きました。信康からみて信長が義父になりました。臣従関係の下ごしらえ、根回しという行為でしょうか。
・永禄10年1567年8月、信長は美濃の稲葉山城を攻めて陥落させ、斎藤龍興を追放した(稲葉山城の戦い)。9月以降美濃平定を進め、11月には知行宛行状で「天下布武印」を使い始めた。同月、正親町天皇の綸旨で「古今無双の名将」と讃えられた上、尾張美濃の朝廷旧領回復(目録提出)を命ぜられた。→実際には畿内平定も未了の段階でしたが朝廷のお墨付きを得て「これから天下に信長の武力を行き渡らせる」と宣言しているのです。この時の天下は「畿内一帯」を意味するとも言われます。
・永禄11年1568年2月8日、三好三人衆が擁立した足利義栄が足利14代将軍の宣旨を受けた。この時点では畿内では三好政権が継続していた。→信長の天下は成立しておらず、家康との上下関係も未成立か。
・永禄11年1568年7月、信長と信玄の間に「信玄が信長の義昭供奉上洛を認めること」「駿河と遠江の今川領について合意した」ことが、7月29日付けで出された謙信宛信長書状で確認できる(上越市史別編1より610号文書)。→信長は謙信や信玄に対して事前の根回しの上で上洛をしていたことが推測されます。信玄には駿河今川領攻略を認め、代わりに遠江今川領は家康に攻めさせることを事前に約束していたことが推察されます。信玄と家康は永禄11年12月に、ほぼ同時に今川領に侵攻します。
・永禄11年1568年9月、信長と浅井長政は義昭を奉じて上洛を開始し、三好三人衆を退け京都に到着した。家康自身は今川家遠江領の侵攻準備をしており上洛軍に加わらなかったが家康の代理として松平信一(藤井松平家)の率いる軍勢2000を信長・長政の上洛軍に参陣させたと伝わります(松平記)。9月12日、六角義賢の観音寺城を攻めて勝利した。10月3日、三好本宗家の拠点であった芥川城に入った義昭のもとに松永久秀・池田勝正らが御礼に参った。10月6日、朝廷より芥川城の義昭に戦勝奉賀の勅使が遣わされた。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて義昭が第15代将軍に就任した。義昭は上洛に尽力した者を呼んだ観能会を企画したが、信長は「未だ戦が終わっていない」として13番から5番に回数を減らした。義昭から副将軍か管領職を提案したが信長は断った。10月24日、義昭は御内書の宛名を「御父織田弾正忠殿」とした。→上洛して幕府を再興させたが、自分はその幕府のナンバー2という地位ではない、信長は義昭に任命される地位ではないという信長の主張が明らかになりました。「(正式に実権を握れる)執権なら受けても良い」と言った可能性があるでしょう。家康は上洛軍に軍勢を出しており、義昭が将軍宣下を受けているので、少なくともこの時点で、義昭・信長政権(二重政権、連合政権)に従っていることになります。家康が上洛軍に参加しなかったのは、信長の要請で信玄に対する抑え、後詰としての配置だった可能性があります。上洛後は、信長から家康への書状には「恐々謹言」という対等の書止文言が残っていますが、黒印が使われており一段下位の位置関係を示唆させるものとなりました。
・永禄12年1569年5月6日、今川氏真が掛川城を家康に明け渡し、戦国大名今川氏が滅亡した。→この時、信長や義昭の関与や承認などは明らかとなっていません。氏真は正室早川殿の実家である北条氏を頼って小田原に入り、北条5代氏直を猶子として駿河国を譲った。和睦に対する北条氏の関与が伺われます。
・永禄12年1569年6月22日、足利義昭は従三位に昇叙し、権大納言に叙任された。→この時点では義昭が形式上は武家の棟梁であり第一人者の地位にあった。家康もこれに従っている状況。
・永禄12年1569年7月、正親町天皇は父である後奈良天皇13回忌の法会費用拠出を家康に求める使者として山科言継を京都から派遣し、途中岐阜で信長に対面した。家康への要件を聞いた信長は驚き、「老足」「極暑」のうえ、家康は駿河境に在陣中なので三河行きは無用であり、信長から飛脚で伝えるので岐阜に逗留して待つように、また、家康による費用調達が不調の場合は信長が代わりに一・二万疋を進上すると内々に申し出た。家康は後日二万疋を進上し、9月に法会が執行された(言継卿記、人物叢書「徳川家康」40ページ)。→この時、家康は独立した大名の雰囲気を残しつつも、言継が信長の居る岐阜に立ち寄り、信長が代わりに費用拠出すると申し出ている様に、家康の後見人になっているような雰囲気があった。
・永禄12年10月12日、信長は上洛したが16日義昭と意見相違があり岐阜に帰国してしまった(多聞院日記15巻永禄12年10月16日に、「信長十二日ニ上洛、十六日ニ上意トセリアイテ下リオワンヌ」との記載)。→将軍義昭と実力者信長の権力闘争が進行中であることが分かります。多聞院日記は奈良興福寺塔頭の僧侶の日記ですから、当時信長の動きは些細なことでも大きな噂話として近畿一円に広まっていたことが分かります。また、義昭と信長の関係性について、人々が注目していたことが分かります。
・永禄13年1570年1月23日、信長の天下布武印と義昭の黒印袖判が押印された「五ケ条の条書」が発行された(奥野高廣による信長文書番号209号)。形式的には、この文書は日乗上人と明智十兵衛(光秀)宛であったが、義昭の袖判が押されており、信長と義昭の合意文書と見ることができる。同日付で家康も含めた諸国大名(畿内を中心に、東は甲斐、西は備前・出雲に及んでいた)へも、禁中修理、武家御用、天下静謐のため上洛命令が発行された(二条宴乗日記・元亀元年二月十五日条、奥野高廣による信長文書番号210号に「徳川三河守殿 同三河遠江諸侍衆」との記載あり)。第4条に「天下之儀、何様ニも信長ニ被任置之上者、不寄誰々、不及得上意、分別次第可為成敗之事」と定められました。「天下の事は全て信長に任せられたのであるから、(天下の事を全て任せられた信長以外の)誰も将軍の命令を受けることはできない。全て信長の一存で決めることができる。」という内容でした。誰も上意を得ることはできないというのは、事実上、信長も上意を受けないということを意味していたのではないか。義昭は上意を発することができない将軍ですよと言っているわけです。これは信長の実質権限を宣言した文書でした。家康に対する上洛命令も、実質的に信長から家康に対する命令だったでしょう。
・永禄13年1570年正月、信長は家康も含めた諸国の大名に「禁中御修理、武家御用、その外天下いよいよ静謐のため、来る中旬参洛すべく候条、各も上洛有り、御礼を申し上げられ馳走肝要に候、御延引有るべからざる候」とする上洛命令を発布した(奥野文書番号210)。2月25日、信長が上洛の途につき、30日京都に着いた。
3月1日、信長は正午頃義昭に挨拶のために幕府を訪問し、午後には大勢の公家衆を相伴して、正装して参内した(言継卿記)。→当時の信長の官位は正六位相当の弾正忠であり、本来昇殿できないはずであったが、何らかの超法規的措置で参内できた。臨時の蔵人や侍従に任じたこと、私称したものを臨時承認したことなどが考えられる(記録上正式な蔵人や侍従ではないことが分かっている)。立花京子氏は、この日、信長が天下静謐執行権を獲得した日であり、将軍代行の地位に立った日としている(「歴史学研究」695号)。この日の全てのスケジュールは事前に打ち合わせされたものであっただろう。
3月5日、家康は初めて上洛し、義昭に家臣の騎乗を披露した(言継卿記)。4月、家康は信長に従って金ヶ崎城の朝倉攻めに参加し、浅井長政の裏切りに遭い、京都に撤退した。信長は岐阜へ、家康は浜松に戻り、軍勢を整えて長政の小谷城に迫った(6月の姉川の戦い)。
・永禄13年1570年4月23日、信長が朝倉攻めで出陣しているすきに足利義昭が正親町天皇に奏上して元亀元年と改元した。義昭にとっては武家の棟梁であることを全国に宣明する出来事だったか。
・元亀元年1570年6月28日、琵琶湖東岸の長浜市で行われた姉川の戦いに、家康が5千の兵を率いて参陣し、浅井朝倉連合軍と合戦し、浅井朝倉軍を敗走させた。→家康は3月の上洛からずっと信長に従って軍事行動を共にしています。姉川(長浜)は三河領から余りにも遠く、信長家康の同盟関係は上下関係に近いものであったことが推察されます。
・元亀元年1570年9月14日御内書(武田文書)将軍足利義昭から家康に対して、信長は参陣無用と言っているが「約諾」により三好三人衆の挙兵に対する近江出陣を要請した。家康は浜松を出て10月2日京都東福寺あたりに着陣し、信長に合流した(志賀の陣)。→この時の織田徳川に格別の上下関係は見られないとする見解がある。信康の元服(信長からの偏諱)があっても、決定的な上下関係には至っていないと評価することもできるか。
・元亀元年1570年10月8日、徳川上杉間に攻守同盟が成立し、家康から謙信に二条からなる誓詞(起請文)が発行された。「一、信玄へ手切れ、家康深く存じ詰め候間、少しも表裏打ち抜き、相違の儀有るまじく候事 一、信長輝虎御入魂候様に涯分意見せしむべく候。甲・尾縁談の儀も、事切れ候様に諷諫(遠回しにいさめる)せしむべく候事」というものであった。→家康に独自の外交権限が残っていたか。ただ、謙信も信長と家康の対等とは言えない同盟関係を意識していた雰囲気が伝わります。
・元亀2年、家康は、信長の5月長島一向一揆攻め、8月小谷城浅井長政攻め、9月4日比叡山焼き討ちには、いずれも参陣していない。
・元亀3年8月、義昭に嫡男義尋が産まれ、義昭は二条城の修理を開始した。(大日本史料第十編之一〇、元亀3年8月18日条)同年9月、異見十七箇条が信長により発行された。信長義昭仲違いの高まりか。
・元亀4年1573年、卯月4月6日付け「古文書纂卅五」では、信長から家康への文書で対等の関係を示す「書札礼(しょさつれい)」が取られていた。→実質的には対等では無かったとしても形式的には対等の状態が維持されていたか。
・元亀4年1573年、7月18日、槇島城の戦いで信長は足利義昭を京都から追放した。7月21日、信長が朝廷に改元を申し入れ、勅命により7月28日に天正に改元された。→朝廷が信長による義昭追放を追認したとも言える。織田政権の誕生であり、実質的な織田幕府の成立か。改元は天皇の践祚(御代替わり)などにおける朝廷の専権事項だが、儀式や手続きなどに費用が掛かることでもありパトロンが必要なので、武家棟梁の費用負担と意向により戦乱が鎮まったことを宣明するために行われる場合もあった(例、平清盛による平治の乱終結による永歴改元、元和偃武)。信長が武家の棟梁になったのであれば自動的に家康は臣下に降っていることになります。ちなみに、1558年の永禄改元は正親町天皇と三好長慶の協議で決められましたし、1593年の文禄改元は後陽成天皇と豊臣秀吉の協議で決められましたし、1615年の元和改元は後水尾天皇と徳川家康の協議で決められました。信長が改元を成し遂げた事実は、家康も認めざるを得なかったでしょう。
・天正2年1574年正月、岐阜城の信長のもとに京都や隣国の武将らが出仕し三献のもてなしがされた。信長公記によれば、他国衆の退出後、馬廻り衆ばかりの酒宴が催され、前年に滅ぼした朝倉義景、浅井久政、長政3人の頭蓋骨に漆塗りで金泥が施されたものが肴に出されたと伝わります。→この時家康が出仕したかどうかは記録が残っていません。
・天正2年1574年3月18日、信長は従三位参議に叙任され、3月27日、信長は蘭奢待という香木の切り取りを朝廷に申し出て認められ、東大寺に奉行として柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、武井夕庵、松井友閑を派遣し、3月28日に切り取っています(信長公記)。→切り取りは寛正6年1465年足利義政が切り取ってから109年振りのことでした。1寸四方で2つ切り取り、1片を正親町天皇に献上し、残り1片を取得しました。これは信長が歴代の足利将軍を超えた権威を有していること、天皇と同じ大きさの蘭奢待を得たことで、天皇と同格の権威を得たと主張した行為だったのかも知れません。信長は改元も蘭奢待切り取りも叶ったので将軍宣下や格別の官位も必要ではなくなったのかも知れません。もはや家康と対等同盟の立場とは言えない地位です。
・天正2年3月20日付け、義昭から家康と水野信元宛の御内書で、「近般信長恣(ほしいまま)の儀相積るにつき」「天下静謐の馳走頼み入る」と信長排除を依頼していた(別本士林証文)。→信長と家康の関係は義昭に認識できなかったか。
・天正2年1574年6月17日の高天神城の戦いで、信長の救援が間に合わず高天神城が陥落した。信長と信忠も救援に向かったが途中で引き返し三河の吉田城に入った。6月19日、家康が浜松城から礼を述べに参上すると、兵糧代として持ってきた黄金2袋を家康に与えたと伝わります。革袋一つが二人で持ち上げなければならないほど重かったと言います。仮に革袋1つ20キロとすると2つで40キロ、黄金1グラム5千円とすると、現在価値で2億円に相当する金額です。→信長と信忠が救援に向かうということは高天神城が「自国領」という認識があったのかもしれません。救援に失敗して家康よりも先に信長が三河の吉田城に入って家康の挨拶を受けたというのも三河を支配していたことを推測させますし、持参した軍資金を家康に与えたのは武田勝頼の再来襲に備えるように命じたと推測できますので、信長と家康の間の主従関係が推察されます。信長の蘭奢待切り取り後に家康と面会したのはこの時が記録に残っている最初の機会でした。
・天正2年1574年9月13日付け家康から信長への書状では、「恐々謹言」の書止文言が使われていた。
・天正2年1574年10月24日付け信長黒印状では、家康に対する書状の宛先が「三河守殿」のみで、「進覧之候」が省略され、文末の書止文言が「恐々謹言」ではなく「謹言」に変化し薄礼化された。また、翌々月である閏11月9日家康から信長への書状の書止文言では、初めて「恐々謹言」ではなく最高位の「恐惶謹言」が使われ厚礼化された。
・天正3年1575年5月21日の長篠の戦いでは、「信長公記」に「家康が国衆であるので先陣にした」と記されていた。国衆は領国内の領主を指す。
・天正3年1575年7月3日、信長は禁中において誠仁親王主催の鞠会に出席し、官位昇進の勅諚を賜ったが、これを辞退し、代わりに老臣たちへの賜姓任官を請い勅許された。明智日向守惟任、羽柴筑前守、滝川伊予守などであった。いずれも未征服の西国ゆかりのものばかりであった。谷口克広氏は、この日が信長が天下人となった画期であったと述べている(「信長と家康の軍事同盟」p151)。これ以降家臣による信長の尊称が「殿様」から「上様」に変化しているという。例えば、8月6日付け立石惣中宛て武藤舜秀書状では、「その浦の儀、上様御陣お懸け成さるべく候間」(立石区有文書)となっている。
・天正3年1575年11月4日に石山本願寺との和睦(一時的な天下静謐)後に上洛し昇殿して従三位権大納言に叙任され、同7日には右大将にも任じられた。紀伊由良に逼塞中の義昭も従三位であり、同位に昇った。11月28日、信長は信忠に家督を譲り、尾張国と美濃国と岐阜城を譲与し、星切の太刀をはじめ種々の重宝も与えた。信長は佐久間信盛宅に移り、安土城築城(摠見寺建立)を開始した。安土城には、天守の近くに信忠邸があり、少し離れて、秀吉邸、利家邸、家康邸が建てられたと伝わる。→かつて源頼朝も武家政権樹立に先立って権大納言と右大将に任じられたと言います。武家の棟梁に相当する朝廷官位を得て、尾張美濃の大名の地位も信忠に譲り、自分はその更に上の立場であることを明確化したと言えます。安土城に家康邸があったことは主従関係の傍証となります。
・天正3年11月以降、信長は宛先を「とのへ」で書き「候也」で終わる御内書様式の文書形式の印判状を発給するようになり、大名同士の文書で用いられる書き止め「恐々謹言」は見られなくなった。書札礼において武家の棟梁の地位を示すようになった。しかも、同時期に義昭が花押つきの御内書を発給していたのに対し、信長は花押無しの薄礼な印判状なので、信長の方が格上の雰囲気さえ与えます。→信長が将軍相当者としての権限を行使し始めた。花押から印判への薄礼化が権限の変化を物語っているようです。
・天正4年1576年1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を任命して安土城築城開始した。竣工は天正7年1579年5月で、完成した天主に信長が移り住んだ。→城内に秀吉邸や家康邸も配置されており、同様に織田家臣の地位にあったか。この配置は、築城開始時に割り当てられていた可能性があるでしょう。
・天正4年1576年11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進した。→官位の上でも信長が義昭を超えた。
・天正5年1577年正月22日久能山東照宮博物館所蔵文書では、信長から家康の文書は目下の関係を示す「書札礼」となっていた。上下関係は「書止」や「脇付」に表れている。
・天正5年10月、信忠が従三位左近衛中将任官。同11月、信長は従二位右大臣任官。
・天正7年9月、徳川信康の正室で信長の長女である徳姫が築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える十二ヶ条の訴状を信長に書き送り、家康により信康が切腹させられた信康事件が起きた(『三河物語』『松平記より』)。翌天正8年2月には徳姫が岡崎城を出て安土城に送り返された。→もはや人質も不要な程の歴然とした上下関係にあったと思われる。なお、信康謀反説については、次の記載を参照。
『当代記』天正7年8月5日部分
『八月五日、岡崎三郎信康主家家康公一男牢人せしめ給う。これ信長の婿たるといえども、父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽んじたてまつられ、被官(家臣)以下に情なく行われ、非道の間かくのごとし。この旨を去月、酒井左衛門尉(忠次)をもって信長に内証を得らるるところ、左様に父・臣下に見限られぬる上は、是非に及ばず。家康存分次第の由返答あり』
・天正9年1581年の家康から信長の文書は「披露状」であった。つまり、連絡内容を信長の側近に対して信長に披露することを依頼する形式となっており、「直接手紙も出せないほど」の上下関係にあったということになります。
ということで、当サイト管理人の現時点の考えは、
「1567年5月27日信長長女徳姫の徳川家輿入れにより清洲同盟のバランスが大きく傾き、1573年7月28日天正改元で信長の武家政権が成立し、清州同盟を質的に変化させた。そして改元後の最初の面会、天正2年1574年正月の挨拶、または4月以降の信長と家康の茶会で蘭奢待を燃やして香を嗅ぐという機会があり、また、遅くとも6月19日吉田城での面会で、完全な主従関係が成立したのではないか。」
というものです。改元は天皇の勅命によって行われるので事実上あたらしい武家政権成立を朝廷が追認する意味も含まれていたでしょう。征夷大将軍を任命したのも朝廷ですし、改元したのも朝廷ですが、義昭任命(1568年10月18日)よりも、天正改元(1573年7月28日)の方が新しい勅命ですから、家康は新しい勅命に従って信長の地位を認めざるを得なくなったというところでしょうか。
※おまけ、天正元年から2年の信長と家康の動向(人物叢書「徳川家康」「織田信長」より)
・天正元年4月12日、信濃駒場で武田信玄死去。
・天正元年7月18日、信長が槙島城を攻めて義昭を降伏させた。7月21日、信長が朝廷に改元を申し入れ、勅命により7月28日に元亀4年から天正元年に改元された。信長は琵琶湖西岸の近江高島郡に大船で渡り木戸城・田中城を攻略した。
・天正元年8月12日、信長は琵琶湖北東の小谷城に籠城する浅井長政と援軍の朝倉義景を攻めた。信長は退却する義景を敦賀一乗谷まで追撃し、8月20日義景自刃。直ちに小谷城攻略に戻り、9月1日長政自刃。信長は北伊勢の一向一揆を攻略して、岐阜城に帰った。
・天正元年9月10日、家康は長篠城を攻め落として、浜松城に帰った。
・天正元年11月10日、信長は上洛して二条妙覚寺に入った。三好義継の若江城を攻めて、11月16日義継自刃。義昭は11月5日に若江城を退去。
・天正2年1月27日、武田勝頼が東美濃明智城を攻め、信長も出馬したが、間もなく城は落ち、信長は帰陣した。
・天正2年3月17日、信長は上洛し相国寺に寄宿し、蘭奢待切り取りを朝廷に申し出た。3月27日、奈良の多聞山城で切り取り。4月1日、帰洛。
・天正2年4月2日、本願寺が再び挙兵。信長は遊佐信教や三好康長らがたてこもる河内高屋城に筒井順慶を派遣した。
・天正2年5月12日、武田勝頼が、家康の属城である遠江の高天神城を攻めた。信長は、この報を受け京から岐阜に帰った。
・天正2年6月14日、信長父子は岐阜城を出発したが、6月17日に高天神城は落ちた。それを知って、信長は、家康配下の三河吉田城に入った。
・天正2年6月19日、家康は信長・信忠父子が待つ吉田城に出馬を謝礼するために入った。
・天正2年7月、信長父子は長島一向一揆攻略に出馬。
※参考書籍
平野明夫、徳川権力の形成と発展
本多隆成、初期徳川氏の農村支配
池上裕子、人物叢書織田信長
藤井譲治、人物叢書徳川家康
金子拓、織田信長権力論
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