家康が信長の臣下に降ったのは何年何月何日か

日本史史料研究会編、信長研究の最前線

シンギュラリティを乗り越えるためには未来を知る必要があります。未来を正しく知るためには現在を正しく知る必要があり、現在を正しく知るためには過去を正しく知る必要があります。

練習問題として、信長と家康の同盟関係が服属関係に変化した時期を考えてみましょう。江戸時代に成立した徳川史観(松平中心史観)では織田徳川の清洲同盟は本能寺の変まで継続したことになっていますが、この本の第一部、平野明夫氏による「織田・徳川同盟は強固だったのか」では、元亀元年(1570年)から、天正3年(1575年)の間に、対等な同盟関係から、家康が信長の臣下に降る転換が起きたと指摘されています。

じゃあ、具体的に、いつ、その転換が起きたのでしょう。その事件は何年何月何日だったのでしょうか。当然ながら、その事件は徳川幕府250年の間に揉み消され証拠隠滅されてしまっているのですが、真実を消し去ることはできませんので、様々な状況証拠から当該日時の推定を考えてみましょう。

・永禄3年1560年6月12日、桶狭間の戦いで信長が今川義元を討つ。天文20年1550年の織田信秀死去後に尾張領への攻勢を強めていた今川義元の遠征を返り討ちにした。家康は直後から今川家を出奔して独立し、織田徳川同盟(清洲同盟)も成立した。信長には尾張統一事業(西方の心配)、家康には三河からの今川勢力排除(東方の心配)というそれぞれの懸案があった。→この時点で既に、信長=義元を討って三河を含む今川領に寧ろ侵攻しようとする立場、家康=今川家属国から偶発事件をきっかけに独立宣言しただけ、という力量の差があった。石高も尾張57万石、三河29万石であった(慶長3年1598年検地)。同盟と言っても最初から歴然とした優劣関係があった。

・永禄7年1564年5月、信長は、反旗を翻していた織田信清が籠る犬山城を陥落、甲斐武田氏のもとへ敗走させ尾張統一を完成させた。→信長は尾張統一を果たしたので清洲同盟を守る理由が減少した。

・永禄10年1567年5月27日、信長の長女である徳姫と家康長男三郎が結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。→偏諱は、臣下に自分の名前の一字を与えて忠勤を求める意味。「信康」で「康」より「信」が先に来るのが象徴的です。信長の方が上位ですね。勿論、徳姫は織田家から徳川家に対する人質です。小牧長久手の戦い後の秀吉妹の朝日姫が家康に嫁いだのと同じで、本領安堵するから臣下に降りなさい、臣下の礼を取るため面会に来ても殺しませんよ、という約束の担保に人質を出したのです。

・永禄10年1567年8月、美濃の稲葉山城を攻めて陥落させ、斎藤龍興を追放した(稲葉山城の戦い)。9月以降美濃平定を進め、11月には知行宛行状で「天下布武印」を使い始めた。同月、正親町天皇の綸旨で「古今無双の名将」と讃えられた上、尾張美濃の朝廷旧領回復(目録提出)を命ぜられた。→実際には畿内平定も未了の段階でしたが朝廷のお墨付きを得て「これから天下に信長の武力を行き渡らせる」と宣言しているのです。この時の天下は「畿内一帯」を意味するとも言われます。

・永禄11年1568年9月、信長と浅井長政は義昭を奉じて上洛を開始し、三好三人衆を退け京都に到着した。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて義昭が第15代将軍に就任した。義昭は上洛に尽力した者を呼んだ観能会を企画したが、信長は「未だ戦が終わっていない」として13番から5番に回数を減らした。義昭から副将軍か管領職を提案したが信長は断った。→上洛して幕府を再興させたが、その幕府のナンバー2という地位ではないという信長の主張が明らかになりました。

・永禄12年1569年6月22日、足利義昭は従三位に昇叙し、権大納言に叙任された。→この時点では義昭が形式上は武家の棟梁であり第一人者の地位にあった。

・元亀元年1570年9月14日御内書(武田文書)将軍足利義昭から家康に対して、信長は参陣無用と言っているが「約諾」により近江出陣を要請した。→織田徳川に格別の上下関係は見られないとする見解がある。信康の元服(信長からの偏諱)があっても、決定的な上下関係には至っていないと評価することもできるか。

・元亀4年天正元年1573年、卯月4月6日付け「古文書纂卅五」では、信長から家康への文書で対等の関係を示す「書札礼(しょさつれい)」が取られていた。→実質的には対等では無かったとしても形式的には対等の状態が維持されていたか。

・元亀4年1573年、7月18日、槇島城の戦いで信長は足利義昭を京都から追放した。7月21日、信長が朝廷に改元を申し入れ、勅命により7月28日に天正に改元された。改元は天皇の践祚(御代替わり)などにおける朝廷の専権事項だが、武家棟梁の意向により戦乱が鎮まったことを宣明するために行われる場合もあった(例、平清盛による平治の乱終結による永歴改元元和偃武)。信長が武家の棟梁になったのであれば自動的に家康は臣下に降っていることになります。

・天正2年1574年3月27日、信長は蘭奢待という香木の切り取りを朝廷に申し出て認められ、東大寺に奉行として柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、武井夕庵、松井友閑を派遣し、3月28日に切り取っています(信長公記)。→切り取りは寛正6年1465年足利義政が切り取ってから109年振りのことでした。1寸四方で2つ切り取り、1片を正親町天皇に献上し、残り1片を取得しました。これは信長が歴代の足利将軍を超えた権威を有していること、天皇と同じ大きさの蘭奢待を得たことで、天皇と同格の権威を得たと主張した行為だったのかも知れません。信長は改元も蘭奢待切り取りも叶ったので将軍宣下や格別の官位も必要ではなくなったのかも知れません。もはや家康と対等同盟の立場とは言えない地位です。

・天正2年1574年6月17日の高天神城の戦いで、信長の救援が間に合わず高天神城が陥落した。信長と信忠も救援に向かったが途中で引き返し三河の吉田城に入った。家康が浜松城から礼を述べに参上すると、兵糧代として持ってきた黄金2袋を家康に与えたと伝わります。革袋一つが二人で持ち上げなければならないほど重かったと言います。仮に革袋1つ20キロとすると2つで40キロ、黄金1グラム5千円とすると、現在価値で2億円に相当する金額です。→信長と信忠が救援に向かうということは高天神城が「自国領」という認識があったのかもしれません。救援に失敗して三河の城に入って家康の挨拶を受けたというのも三河を支配していたことを推測させますし、持参した軍資金を家康に与えたのは武田勝頼の再来襲に備えるように命じたと推測できますので、信長と家康の間の主従関係が推察されます。

・天正3年1575年5月21日の長篠の戦いでは、「信長公記」に「家康が国衆であるので先陣にした」と記されていた。国衆は領国内の領主を指す。

・天正3年1575年11月4日に石山本願寺との和睦(一時的な天下静謐)後に上洛し昇殿して従三位権大納言に叙任され、同7日には右大将にも任じられた。11月28日、信長は信忠に家督を譲り、尾張国と美濃国と岐阜城を譲与し、星切の太刀をはじめ種々の重宝も与えた。信長は佐久間信盛宅に移り、安土城築城(摠見寺建立)を開始した。安土城には、天守の近くに信忠邸があり、少し離れて、秀吉邸、利家邸、家康邸が建てられたと伝わる。→かつて源頼朝も武家政権樹立に先立って権大納言と右大将に任じられたと言います。武家の棟梁に相当する朝廷官位を得て、尾張美濃の大名の地位も信忠に譲り、自分はその更に上の立場であることを明確化したと言えます。安土城に家康邸があったことは主従関係の傍証となります。

・天正3年11月以降、信長は宛先を「とのへ」で書き「候也」で終わる御内書形式の文書形式の印判状を発給するようになり、大名同士の文書で用いられる書き止め「恐々謹言」は見られなくなった。→信長が将軍相当者としての権限を行使し始めた。花押から印判への薄礼化が権限の変化を物語っているようです。

・天正4年1576年11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進した。→官位の上でも信長が義昭を超えた。

・天正5年1577正月22日久能山東照宮博物館所蔵文書では、信長から家康の文書は目下の関係を示す「書札礼」となっていた。上下関係は「書止」や「脇付」に表れている。

・天正5年10月、信忠が従三位左近衛中将任官。同11月、信長は従二位右大臣任官。

・天正9年1581年の家康から信長の文書は「披露状」であった。つまり、連絡内容を信長の側近に対して信長に披露することを依頼する形式となっており、「直接手紙も出せないほど」の上下関係にあったということになります。

ということで、当サイト管理人の現時点の考えは、

「1567年5月27日信長長女徳姫の徳川家輿入れにより清洲同盟のバランスが大きく傾き、1573年7月28日天正改元で信長の武家政権が成立し、清州同盟を質的に変化させた。1574年4月以降の信長と家康の茶会(改元後の最初の面会)で、蘭奢待を燃やして香を嗅ぐという機会があり、その時に完全な主従関係が成立したのではないか。」

というものです。改元は天皇の勅命によって行われるので事実上あたらしい武家政権成立を朝廷が追認する意味も含まれていたでしょう。征夷大将軍を任命したのも朝廷ですし、改元したのも朝廷ですが、義昭任命(1568年10月18日)よりも、天正改元(1573年7月28日)の方が新しい勅命ですから、家康は新しい勅命に従って信長の地位を認めざるを得なくなったというところでしょうか。

※参考書籍

平野明夫、徳川権力の形成と発展

本多隆成、初期徳川氏の農村支配

池上裕子、人物叢書織田信長

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