量子もつれとは

ルイーザギルダー、宇宙はもつれでできている

これはブルーバックスの名著、必読書です。ついでに言えば「宇宙はもつれでできている」というのは、正しく言えば「宇宙はもつれそのものである」ということになります。

シュレーディンガー方程式を解くことができれば量子コンピューターを使うことはできますが、量子もつれの歴史的背景まで知っていなければ量子コンピューターを本当に理解したとは言えないでしょう。

量子コンピューターを理解するには「量子もつれ」を理解する必要がありますが、量子もつれがどのように作用するかを理解するだけでなく、人類がどのようにして量子もつれを認識したかを知るには、物語調で、時間の経過に従って量子力学の歴史を学ぶ必要があります。量子もつれがどのように作用するかを学べば量子コンピュータを使うことは可能ですが、それでは量子力学の興味深い物語や哲学的な意味合いを知ることはできません。それは壮大な歴史ドラマなのです。人類は少しずつ少しずつ一歩ずつ歩みを進めて量子もつれに到達しました。

量子コンピュータの起源は様々な段階がありますが、「量子もつれ」という単語が生まれた日付は、科学ジャーナリスト、ルイーザ・ギルダーさんの力作によって解明されています。彼女は膨大な手紙や伝記を整理して物語を紡ぎあげました。それは、1935年8月14日、シュレーディンガーがケンブリッジ哲学協会に投稿した論文「分離した系同士の確率関係をめぐる考察」の中でした。

これは1935年5月に「フィジカル・レビュー誌」に発表されたアインシュタインとポドフスキーとローゼンのいわゆるEPR論文を受けて書かれたものです。量子力学の確率解釈(ボーア量子力学)は、離れた二つの波動量子が相互作用するときに光速を超える情報伝達を生じてしまうが、それは矛盾ではないか、という論文です。

驚くべきことに、離れた量子の光速を超える相関関係は、ジョン・ベルの不等式の論文を経て、クラウザーアスペの実験により、「矛盾」ではなく、実際に起こりえる「非局所的な相関関係」と認識されるに至りました。EPR論文が提示した量子力学のパラドクスは、パラドクスじゃなくて本当に起きる「EPR相関(EPRもつれ)」になってしまったのです。どうも、EPRパラドクスは、情報が光速を超えて伝わるという古典的な理解方法による誤解だったようです。

ジョン・ベルとマイケル・ノーエンバーグの1964年の「量子力学の道徳的側面」という論文には次の一節があります。

「論理的に考えれば、波束の収縮、言い換えれば波動関数の収縮、を起こす究極の原因は「意識の作用」である可能性が残されている。」

なんという哲学的な、深い文章でしょう。

この本を読むと、人類が量子コンピューターに至る道のりには実に様々な段階のドラマを経ていることが分かります。

1900年、マックス・プランクがエネルギーの最小単位を発見した。

1905年、アルベルト・アインシュタインが光量子仮説を提示した。

1913年、ニールス・ボーアが水素原子の電子のエネルギーが特定の値を取ることを提示した(ボーアの原子模型)。

1924年、ルイ・ド・ブロイは博士論文で物質波を提唱した。

1925年、ハイゼンベルグが量子エネルギーを記述する行列力学の論文を提出した。

1926年、シュレーディンガーが水素原子のスペクトル(電子のエネルギーレベル)を記述する波動方程式を提出した。

1927年、ハイゼンベルクが、ある粒子の位置をより正確に決定する程、その運動量を正確に知ることができなくなり、逆もまた同様である、という不確定性原理を提出した。

1927年末のソルヴェイ会議で、ボーアとアインシュタインが論争し、アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という発言があった。不確定性原理を「確定」させる、「隠れた変数」理論がド・ブロイによって提案された。

1932年、アインシュタインはドイツを出国し、翌1933年プリンストン高等研究所の教授に就任した。

1935年、アインシュタインは、ローゼンやポドフスキーと共同研究しEPR論文で、量子の相互作用は光速を超えるので相対論に反すると主張した。

1935年、シュレーディンガーは2つの量子が相互作用することを「量子もつれentangle」と初めて呼んだ。

1952年、デイヴィッド・ボームが量子力学の実在論解釈を提出した。これはボーアらの確率解釈と完全に両立する(矛盾しない)ものであった。

1964年、ジョン・ベルが局所実在論の限界条件を定める「ベルの不等式」を提出した。ひとつの量子は同時に全宇宙に波及しえないとするのが局所実在論である。

1972年、クラウザーとフリードマンが、ベルの不等式が破れている(局所実在論が誤りである)ことを実験で証明した。あらゆる量子は全宇宙に存在している。

1981年、ファインマンがコンピュータ物理学の学会で「自然をシミュレーションしたければ量子力学を使うべきだ」と講演し、量子計算の活用を訴えた。

1982年、アラン・アスペの実験によりベルの不等式が破れていることが決定的であると多くの物理学者が認めた。量子もつれの距離に制限は無くEPR相関があることが判明した。

1985年、デヴィッド・ドイチュが量子計算の可能性(量子チューリングマシン)を提示した。

1994年、ショアのアルゴリズムが提出され1000桁の数字の因数分解を瞬時に解けることが判明した。

この本を読むと、EPR論文が「量子もつれ」の実用化に決定的な影響を与えたことが分かります。EPR論文がジョン・ベルを刺激し、ジョン・ベルの不等式論文が、世界中の実験物理学者を刺激して「量子もつれ」の実験を促進したことが分かります。これほど「量子もつれ」の認識に貢献した、EPR論文のポドフスキーとローゼンと、ジョン・ベルがノーベル物理学賞を受賞していないことは不可解なことに思われますが、彼らは人類がその発見の凄さに気付く前に亡くなってしまったんですね!


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です