戦国時代の戦乱が収まって100余年、江戸,6代将軍徳川家宣の時代、今の九州肥前佐賀藩の武士、山本常朝が述べた武士道の精神を書き留めた秘密の書「葉隠」が再び注目を浴びています。最も有名な「武士道とは死ぬことと見付けたり」という文言がありますが、他にも沢山の珠玉の言葉が散りばめられています。それらの言葉を鑑賞し、解釈し、来るべきシンギュラリティの時代に生かすべきだと思います。管理人が感動した部分を御紹介致しますので、各自本書を手に取って考えて見て下さい。
・「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。」
(意訳)武士道の要点は結局のところ「死ぬこと」であると分かった。生死の境目の場面が来るごとに、常に「早く死ぬ選択肢」を選び続けるだけでよい。
(解釈)葉隠で一番有名な言葉です。一番最初に接したときは驚いて唖然としてしまいましたが、大学生の頃に「菊と刀」を読んで少しずつ理解できるようになった気がします。高度に形而上学(観念論)が進展して、生死の境目さえ越えてしまった境地ということでしょうか。世界中探してもそんな文化めったにありませんよね。「二つ二つの場」というのは、「生死の境目が何度も訪れるが」というような意味です。死ぬ方を選んだら死んでしまうのであり、なんで何度も訪れるのか、と思うかも知れませんが、武士道の本質は「死ぬ覚悟」にあるので、本当に死んでしまうこととは別なのです。武士道の大義を実現するために死んでも良いと思って選択肢を選び取って進んで行って、結果として死ぬこともあるかも知れませんが、死なないこともあるわけです。ある程度リスクを犯しても、生死を超えた価値あるモノを見つめて生きていくということなんですね。シンギュラリティの時代にも、様々な価値観が現れては消えていくのですが、真に価値のあるものを掴み取って下さいという教訓だと思いました。
・「来年の盆には客にぞなるべき。さても、あだな世界かな。忘れてばかり居るぞ。」
(意訳)人はいつ死ぬか分からない。来年の御盆には死者としてまつられているかも知れないのだ。なんともはかない世の中である。世の人はこれを忘れていることよ。
(解釈)これは一期一会、毎日毎日の瞬間を大切に生きろという教えですね。明日交通事故に巻き込まれて死ぬかも知れないということです。毎日毎日を完成させろということですね。シンギュラリティ革命でも、毎日全力で楽しみなさいと教えているようです。
キリスト教との類似性
驚くべきことに、葉隠の「武士道は死ぬことと見つけたり」の思想との類似性を、キリスト教にも見つけることができます。
第一巻二十三章「死の瞑想について」より
「自分の死期をいつも眼前にたもち(集会書7)、毎日死ぬ心構えを怠らない者は祝福されたひとである。もしあなたがいつか人の死ぬのを見たなら、あなたもまた同じ道を辿っていくことを考えなさい(ヘブライ書9-27)。」
集会書(シラ書)7章36節より
「何事をなすにも、お前の人生の終わりを心に留めよ。そうすれば、決して罪を犯すことはない。」
第一コリント人への手紙15章31節より
「兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである」
コリント人への手紙の主語は、使徒パウロです。
キリスト教の死生観は、古代ローマ時代(詩人ホラティウス)の「カルぺ・ディエム(今を生きろ)」にも通ずるものがありますし、中世ヨーロッパのペスト大流行を経て「メメント・モリ」へと繋がって行きます。
時代も場所も違う、日本武士道精神と西洋キリスト教精神の類似性に困惑してしまいますが、人生観・世界観・死生観を突き詰めて考えていくと、似たような精神状態に到達するということなのでしょうか。興味深い一致です。
※参考記事

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