プランク定数

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当サイトでは、シンギュラリティの時代を乗り越えるために、未知の世界を探求する精神が大切だと考えております。科学史を学ぶことは知的好奇心を磨く良い方法であり、答えの無いシンギュラリティの時代を渡っていくための重要な武器になると考えています。そこで、人類がプランク定数を発見するに至った歴史を紐解いてみることに致しましょう。

1、量子力学の起源=虹

原子力発電や太陽光発電や半導体計算機の恩恵を受けている現代社会の我々は、このように便利な知識の起源がどこにあるのか、ほとんど気にも留めないで生活しています。しかし、それは間違い無く、原始時代の人類が目にした「虹」のスペクトルです。古今東西を問わず文字を獲得した人類は、それを様々な神話に書き記しました。

古事記、中巻6應神天皇条

又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。

昔新羅国王の子で、天之日矛(あまのひぼこ)という名の者が居り、この人が日本にやって来た。

所以參渡來者、新羅國有一沼、名謂阿具奴摩。自阿下四字以音。

日本に来た由来の話である。新羅に阿具奴摩という名の沼があった。阿から始まる4文字の名前である。

此沼之邊、一賤女晝寢、於是日耀如虹、指其陰上。

この沼のほとりで、ひとりの身分の低い女が寝ていた。そこに太陽の光が虹のように輝いて、女の性器を照らした。

亦有一賤夫、思異其狀、恒伺其女人之行。

そこにもう一人、身分の低い男が居り、これを不思議に思って、女を見ていると、

故是女人、自其晝寢時、妊身、生赤玉。

女は昼寝しているときに妊娠し、赤い宝石を産みました。

爾其所伺賤夫、乞取其玉、恒裹著腰。

それを見ていた男は、その玉が欲しいと願い出て、受け取り、常に腰に身につけていました。

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古事記で「虹」が出てくるのはこの1カ所だけです。なにやらミステリアスな舞台装置として使われていますね。

2、プリズムによる人工的な虹

その不思議な「虹」を人工的に創り出すことに成功したのが、天才アイザック・ニュートンでした。プリズムによる分光実験を行い、1704年に「光学」という本にまとめました。プリズムで分離された虹を研究する分光法 (spectroscopy) と呼ばれる学問分野が創始されたのです。

人工的に虹を作り出すことに成功したので、虹をより詳細に観察することができるようになりました。それはやがて、虹のスペクトラムの中にギザギザ(暗線)があることを発見することに繋がるわけです。

他にも万有引力の法則、微分積分法の発見など、とても一人の人間が成し遂げたとは思えないほどの科学業績をあげています。

※参考論文、『光学』におけるニュートンの物質観

https://lib.ouj.ac.jp/nenpou/no34/34_15.pdf

ロシアのノーベル物理学賞受賞者レフ・ランダウ博士は、歴史上の物理学者を対数スケール0から5(1動くと10倍の貢献度)でランキングしましたが、ランク0はアイザック・ニュートンだけでした。アルベルト・アインシュタインはランク0.5。ランク1にはニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラック、エルヴィン・シュレーディンガー、エンリコ・フェルミ、サティエンドラ・ボース、ユージン・ウィグナーらが位置づけられたということです。ちなみにランダウ自身はランク2と自己評価していたそうです。

3、太陽光スペクトルの暗線

18-19世紀イギリスの化学者、物理学者、天文学者ウィリアム・ハイド・ウォラストン(William Hyde Wollaston)は、1802年6月24日、太陽光のスペクトルのなかに暗線のあることを発見し論文で報告しました。

http://rstl.royalsocietypublishing.org/content/92/365.full.pdf

紛れもなく、この時が、人類が電子軌道を認識した瞬間だったのです。

1814年に、ドイツの物理学者ヨゼフ・フォン・フラウンホーファーは太陽光スペクトルの暗線を詳細に観察し、約700本の暗線を発見し、主要な線にAからKの記号をつけ、弱い線については別の記号をつけました。後にこれらの暗線はフラウンホーファー線と呼ばれるようになりました。

19世紀には、ヨーロッパ中の物理学者、天文学者が、太陽光スペクトルの暗線が何故どのようにして出来るのか研究し続けました。それは「分光学」という名前が付けられ、大学に学部が設けられました。現代の我々には想像もつかない程の知的好奇心と研究エネルギーが注ぎ込まれました。19世紀は分光学の百年と言えるでしょう。

光の波長と、発光している原子の関係に気付いたのが、プロイセンの物理学者グスタフ・キルヒホフでした。物質は自分が発する光と同じ波長の光を吸収することに気付き、1860年、物体が放射したり吸収したりする光の強さは、物体や波長により異なり、固有の値を持つことを発見したのです(キルヒホフの法則)。これは夏の夜を彩る花火の炎色反応の起源です。

4、原子説と周期表

イギリスの科学者ジョン・ドルトンは、液体による気体の吸収量の測定から化学的原子説を提唱した。1805年の論文で次のように述べた。

「何故、水はあらゆる気体を同じ量だけ吸収しないのか? 私はこの疑問を当然考察し、自身で完全に納得したわけではないが、気体を構成する究極の粒子の数および質量に依存するのではないかとほぼ確信している。」

ドルトンは相対原子質量(原子量)の表を出版した。最初の表には、水素、酸素、窒素、炭素、硫黄、リンという6種類の元素が掲載されていた。

1869年、ロシアのドミトリ・メンデレーエフは、「元素の性質と原子量の関係」と題する論文を発表し、性質の似ている元素が原子量が増えるに従って周期的に並ぶことを見出した。周期表を提案し、当時未発見だったガリウム、スカンジウム、ゲルマニウムの場所を空欄としていたが、後日それらの元素が発見された。周期的に並んだのは、価電子数が共通だったからであると後日判明します。このとき、間接的に人類は電子軌道を認識したことになります。

5、空洞放射の定式化

19世紀重工業の発展に伴い、製鋼業において炉の中で発熱する鉄の温度を正確に測る必要性が増して、温度と色の関係が研究されました。鉄鋼の炭素濃度と融点の相関を利用して必要な強度の鉄鋼を生産するためには炉の中の温度を正確に知ることが重要になってきたのです。経験的に温度が上がると波長も短くなると知られていました。この関係を正確に計測するために黒体からの放射が盛んに研究され、炉の内側を黒く塗ってそれを外側から温めて小さな穴から光をプリズムで計測する「空洞放射=黒体放射」の実験が繰り返されました。キルヒホフの法則により、放射を測定するにはあらゆる波長の光を吸収する「黒体」の観察が必要であると分かったからです。

黒体放射のエネルギー分布(スペクトラム)があらゆる物質で変わらないのは、あらゆる物質で電子軌道が同じだからです。別の言い方をすれば、あらゆる物質が持っている電子は同じものだからです。

黒箱の実験を繰り返し、空洞放射の定式化を初めて行ったのが、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・ヴィーンです。1896年にヴィーンの放射法則を発表しました。

Black-Body Radiation spectrum

ヴィーンが提案した式は、高周波領域(紫外線から青色領域)では実験に良く合致しましたが(青の公式)、実験精度が上がるにつれ、低周波領域(赤外線から赤色領域)でズレが大きいことが判明してきました。

イギリスの物理学者レイリー卿は、1900年、レイリー・ジーンズの法則を提案し低周波領域における良い近似式を与えました(赤の公式)。当時、マクスウェルの波動方程式が導かれ、光が電磁波であるという予言が物理学者により承認された時期だったので、レイリー卿は、黒箱の中の波動は黒箱の大きさを波長で割ればカウントできると考えました。しかし、それぞれの波動が同じ温度なので同じエネルギーを持つと考えれば、エネルギーの総和は波長が短くなるに従って無限に大きくなっていくという受け入れがたい結論となってしまいます。

6、プランクの法則

ドイツの物理学者マックス・プランクは、1900年の年末にベルリンで開かれたドイツ物理学会のクリスマスパーティー講演会で、空洞放射のスペクトル実験結果を上手に説明できる法則(プランクの法則)を発表しました。黒箱の中では、どんな波長の電磁波もエネルギーを持ち得るが、振動数に比例する単位量の整数倍のエネルギーしか持ち得ず、単位量以下のエネルギーは受け取ることができないと考えると、ラレー卿の近似式のような無限のエネルギーを回避することができるというのです。これは、エネルギー、電磁波、光に「単位」があるという着想でした。プランクは実験結果を説明するために苦肉の策で思い付いたに過ぎませんでしたが、これが実験結果に良く一致していました。

プランクの法則には、自然現象に「飛躍」があるという、当時の人々には思いもよらないような大胆な考えが含まれていました。エネルギーが飛び飛びの値しか取り得ないということです。

E=hv

(ここでEはエネルギー量子、hはプランク定数、vは振動数)

アメリカの物理学者ロバート・ミリカンはアインシュタインの光電効果を実証する実験を行い、プランク定数の測定を行いました。プランクの発想は、アインシュタインの光量子仮説ボーアの量子条件に引き継がれて量子力学の扉を開いたのです。

※ミリカンの論文「A DIRECT PHOTOELECTRIC DETERMINATION OF PLANCK’S “h.’”」

https://journals.aps.org/pr/pdf/10.1103/PhysRev.7.355

※参考書籍

山本義隆、原子・原子核・原子力――わたしが講義で伝えたかったこと

片山泰久、量子力学の世界


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