
ロシア出身のアメリカ人作家アイン・ランドの1943年のロングセラー小説が、日本語訳されたのは2004年のことでした。60年以上も、日本では知られていませんでした。英語の分厚い本を読めるごく一部の人々しか、日本では触れることができませんでした。しかしアメリカでは、大学に入ったら皆が読む本なんだそうです。アメリカンドリームの実現者も、それを称賛する人々も、みなアイン・ランドを読んで共感していたのです。アイン・ランドには、合理的利己主義を解説するエッセー集「利己主義の美徳」という本もありますが、不思議と、「水源」のような小説の方が、思想の理解がしやすいように思いました。登場人物の動作や生き方やセリフによって、言行一致の形で、思想が迫って来ます。
14ページ「信じがたいほど君は勝手なやり方をしている。この大学が君に教えようとしたあらゆる原則に反するしろものをだ。」
ハワード・ロークは、歴史的様式の課題を与えられたのにオリジナルの現代様式の図面を提出してスタントン工科大学を退学になりました。教授と喧嘩して大学を去るというのは、あのアインシュタインのチューリッヒ工科大学事件を思い出させるものですね。アインシュタインは教授と喧嘩したので助手採用されず、スイスの特許局に就職して、独自に物理学の研究を続けたのでした。
213ページ「ハワード、君は自己中心の怪物だな。君が、そのことに全く無頓着であることからこそ、余計に怪物なのだよ。」「君は私が今まで会った中でもっとも他人を活気づけ命を与える人間だ。」
ハワード・ロークは最初の顧客であるオースティン・ヘラーからこのように言われました。ロークの利己主義は徹底的なものであり、他人に対して冷たくも見えるが、なぜか元気付けるような性質も持っていました。それは、まさに、魂の源、元気の源、「水源」を持っているからなのです。
606ページ「だって、それでは、、それでは死んでいるのとおなじじゃないか。それでは、君はほんとうに生きているとは言えないよ。」
キーティングがドミニクに言いました。自分がやりたいことを表明しなければ生きてないも同然じゃないか、自分がやりたいことは何なのか?これは不思議なセリフです。読めば分かりますが、キーティングの方がドミニクよりも「やりたいことが無い」人間なのです。やりたいことが無い人間が、やりたいことのある人間に対して、「それでは生きているとは言えないよ」と言っているわけです。それは自分自身に対して言っている言葉でもあるわけです。
709ページ「これは、永遠の戦いなのよ。ふたつの観念の間に繰り広げられる闘争だわ。」
これはドミニクの独白ですが、この本で何度も取り上げられるふたつの陣営の闘争を示しているものです。利己主義と利他主義、個人主義と集団主義、創造者と模倣者。自己中心主義者とセコハン人間。自立と依存。
799ページ「一度、その機会を提供されたことがありましたよ、ゲイル。でも僕は断りました。」
ロークとドミニクの恋は、最初、相互依存の形を取りかねない状況となったのですが、ロークがそれを断ったわけです。自立した個人同士の恋愛を、アイン・ランドは描き切ったのです。恋愛教が溢れる日本において、このような形のラブストーリーは初めて読んだので、とても新鮮に感じました。恋に恋する女子高生や女子大生もこの本を読むべきでしょう。
841ページ「人間が他人を傷つけるなんてことできるのかな。重要な意味では、人は人をほんとうに傷つけることなどできないと思うよ。ほんとうに人を助けることができないようにね。」
公営住宅の設計を助けて貰いたいと会いに来たキーティングに対してロークが、個人主義の神髄を述べました。最後の面会で、それは裁判での証言だったのですが、キーティングがロークを罵倒していたのですが、そんなことは関係ないとロークは述べたのです。
852ページ「君は、本当の意味での自己中心主義者だ。君は、僕が知っている人間の中で、一番自己中心主義者で、一番優しい人間だ。」
公営住宅設計者の名義貸しの合意が成立したとき、キーティングはロークに言いました。自己中心主義とか、優しいという言葉の意味が、世間一般では間違って使われているということをあぶり出しているわけです。自己中心主義の人が優しいというのは世間一般の語法では矛盾なのですが、そうではないと読者に分からせようとしているのです。
878ページ「僕は自分がほんとうに望むことをしなかった。それが罪なんだ。」
結婚をドタキャンしたキーティングが、6年ぶりに偶然街角でキャサリンに会って、喫茶店に行って謝罪した言葉でした。それはキャサリンに対する謝罪であると同時に、自分自身の行為の罪を告白した言葉だったのです。
888ページ「他人こそが、彼を動かす力でした。彼の最大の関心事は他人の評価だった。彼は偉大になりたかったのではなく、偉大だと評価されたかったわけです。」
ロークがワイナンドに対してキーティングのことを述べました。それは、他人の人生を生きるセコハン人間の説明でした。それは、他人の生き方、使い古された生き方しかできない人間です。
943ページ「すべての人間が、すべての人間の意志に従属するわけですねえ。これこそ普遍的奴隷制ですよ、、主人の威厳がない奴隷制。奴隷に対する奴隷。偉大なる円環を描く奴隷制です。奴隷の奴隷である主人。これこそ、全体的平等というものですよ。これが本来の世界なのです」
トゥイーが、キーティングに自分の思想を告白した場面でした。絶対的平等とは、万人の万人に対する奴隷制に外ならないと告白しているのです。それでも、その奴隷制を私は目指しているのだと、述べているわけです。この人は、意図して奴隷制の世界に人類全体を引き込みたいと心底思っているわけです。
944ページ「そこからの出口を、我々は閉じてしまいました。逃げ場なし。選択肢はなし。コインの裏表はないのです。コインの表が集団主義ならば、裏も集団主義です。個人など抹殺せよという教義によって、個人を抹殺する教義と戦っても、魂をみんなと一緒の会議に任せるか、国家の独裁者にまかせるか、どちらかしか道はない。」
トゥイーがキーティングに1930年代の世界情勢について述べた場面です。民族主義でも社会主義でも、民主主義でも独裁主義でも、集団主義に変わりは無いと断じているのです。
1007ページ「創造者は、自らの真実をあらゆることに優先させました。真実のために、世間の人々とも敵対しました。」
ロークの最終弁論で、利己主義の歴史から内容まで詳細に述べた部分でした。ロークの最終弁論は大演説で、まるで小説じゃないかのような社会科学の論文のような論説なのです。
1012ページ「絶対的意味での自己中心主義者は、他人を犠牲になどしません。どんなやり方にせよ、他人を利用する必要などないところに、立っているのが自己中心主義者だからです。」
1013ページ「人間は、たったひとりで考え、働くのです。ひとりでいられる人間は、誰か他人から奪うはずもないし、搾取もしないし、他人を支配もしません。強奪に、搾取に、支配というのは、犠牲者を前提とします。つまり、これらの行為は依存を内包します。誰かに依存する心性が、強奪や搾取や支配を生むのです。これらの依存的行為は、みなセコハン人間の分野に属するものです。」
1015ページ「今度は、個人主義の原則の上に建設された社会の結果をごらん下さい。そうです、ここ、我々の国です。人類の歴史上、もっとも気高い国です。最大の業績と、最大の繁栄と、最大の自由を獲得した国です。この国は、無私な奉仕や犠牲や諦念や、あらゆる利他主義的規範に基づいているわけではありません。この国が基づいているのは、幸福を追求する人間の権利なのです。」
ロークの最終弁論の抜粋を御紹介致しました。ネタバレとなりますので、裁判の結末は書きません。是非、藤森かよこさんの翻訳本を読んでみて下さい。ブックオフとかで買わないで新品を買いましょう。日本人が沢山買って、沢山読めば、文庫本も出版されるようになるでしょう、そして、日本が進歩的な国に脱皮できるでしょう。
この本は、ハワード・ロークという建築家のサクセスストーリーでもあるわけですが、モダンすぎるデザインということで反ローク新聞キャンペーンが行われたりして事務所が倒産して採石場や工事現場で働くなど、受難の物語でもありました。管理人はマタイ受難曲を良く聴くのですが、そこで語られる受難の物語と酷似しているのです。創造的な建築物を建てただけで訴えられて裁判に掛けられる、まさに、キリストの受難の物語のようだなと感じました。アイン・ランドが意識しているかどうか不明ですが、これは20世紀の新約聖書なのかもしれません。

不思議な話なのですが、同時期に読んでいた、トマス・ア・ケンピスさんの修道生活の心得書「キリストにならいて」、これは究極の利他主義の指南書であると世間一般で見なされている書物なのですが、そこに、アイン・ランド「水源」との奇妙な一致を感じたのです。
第一巻21章「もしもあなたが、他の人々を放っておくことをわきまえるなら、彼ら自身とて喜んであなたを放っておいて、あなた自身の仕事をさせてくれよう。他人の事件に関わり合うな、またあなたより高い地位にある人々の言い分(争い)に巻き込まれぬようにしなさい。そしてまず第一に、いつも自分自身を見張っていなさい。またあなたに親しい人々を戒めるより前に、ことさら自分自身を戒めるよう。みしまた人々があなたを喜んで迎えないといっても、そのために悲しんではいけない、それよりむしろあなたが、神の僕なり、敬虔な修道者なりの生活にふさわしいよう、十分によくまた慎みぶかく身を処していないことを、遺憾と思うべきである。」
はい、ケンピスさんも、「他人の評価は気にするな!」と宣言しているのですね。究極の利他主義と、究極の利己主義は、繋がっているのかもしれません、似ているのかもしれません、同じものかもしれないのです。
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